焼失

鍋谷葵

第一話

 室伏武夫は名高い画家ではなかったが、芸術の道を邁進し、それなりのキャリアを築き、都市近郊に一軒家を持つ程度に成功した芸術家であった。彼の自宅兼アトリエには、彼の妻でその年で四十となる直美、彼の母である齢六十の静子、そして一人娘である一歳半の佳奈美が暮らしていた。


 麗らかな春の早朝。


 青空をうっすらと覆うように雲がかかり、和やかな空気は住宅街に充満していた。かすかに花の匂いを感じられる風は路地を吹き抜け、学校や会社に向かう人々の背中を押していた。


 温い風は快い。それが花粉や黄砂を運んでいようとも心持ちは弾む。一方、和やかであるからこそ日常と異なる印象は一層強烈になってしまう。木や建材が燃えたために立ち昇る臭いなどはことさらである。


 学校や会社があろうと日常に変化があれば人は立ち止まる。変化が強烈であれば無関心を装う人でも立ち止まり、変化点には多くの注目が集まる。


 住宅街の一画では二階建ての住居が煌々と燃え、黒煙が立ち昇っていた。周囲には野次馬とサイレンの喧しさ、燃え続ける住宅から聞こえる燃焼の音。それは室伏の築いてきた財が崩れる一幕であった。ただし、現場に一家の主である男の姿は見えない。それどころか室伏一家の中でそこにいたのは、二階から火が上がったとき慌てて家から出てきた直美だけであった。


 消化水槽から伸びる白色のホースは膨らんでいた。その口先は火事現場に向かい、大量の水を勢いよく吐き出していた。しかし炎と黒煙はいまだ止むことなく、隣の住宅に延焼しそうな勢いを保っていた。


 音を立てて住居の二階の壁部分が崩れた。そこから覗くのは赤々と燃える炭化した木材。それは「バチバチ!」と音を立て、時折灼熱の火の粉を迸らせた。その様からすでに二階部分は十分に燃えており、瓦屋根が崩れ落ちるのは時間の問題であった。


 屋根が崩れ落ちれば、その重さに従って一階部分も崩れる。


 そうなれば住宅から出てきていない彼と、彼の子、彼の母は、みな塵と化す。したがって、野次馬と彼の妻、そして消防作業に当たる消防士は、彼らを連れた消防士が燃える住居から一刻も早く出てくることを焦燥のうちに願っていた。もっとも、隣家の年老いた夫婦は一刻も早く屋根が崩れ落ち、家そのものが燃え尽きることで自宅に火がつかないことだけを願っていたが。


 消防隊が突入した際、開け放たれた玄関扉からは熱気を帯びた黒煙が立ち昇っていた。それは野次馬と彼の妻に対し、これ以上屋内に滞在すれば死は免れないことを理解させた。これは彼らの胸中に人命に関する興奮を抱かせ、その動きはざわめきを帯びた。


 他方、その視線は黒煙を吐き出す玄関にのみ向けられた。彼の妻でさえこの本能的な情動に身を任せていた。


 彼らの緊張と興奮が絶頂に達したのは、直感的な理解を獲得した三分後であった。彼らは黒煙の中から口元をハンカチで覆い、腰を低くして現れた室伏、息子の肩と消防士の肩を借りて何とか歩いている背の小さい静子を見た瞬間、「ワッ!」と声を上げた。三人が家から十分に距離を取り、煤塗れの顔に目鼻を浮かばせた瞬間、その声はより喧しくなった。


 しかしその三四十人の声も、屋根を支える柱が燃え尽き、一階部分もろとも屋根に押しつぶされた際に鳴った騒音にかき消された。


 轟音と大量の火の粉と煤は彼らの頭上を満たした。彼らは耳鳴りに支配された。その曇る聴覚が晴れた瞬間、彼らは四十手前の男女がむせび泣く痛々しい声を聴いた。


 野次馬の視線は自然とその声の発生源に向いた。


「ごめんなさい。娘さんは助けられませんでした……」


 煤塗れの消防服を着た若い消防士は地べたに座り込む夫婦を見下ろしながら、悔恨の情溢れる声音で同じ言葉を何度も発した。取り返しのつかない事実に全身を強張らせ、頭を下げるその姿からは彼の誠実さが表れていた。


 座り果てる夫婦と、その傍らでせき込み続ける老女は、救急隊員に連れられ病院に運ばれた。野次馬たちは走り去る救急車のサイレンの残響と消防士たちの「危ないですから、離れてください!」という怒号の中で、それぞれの日常へと戻っていた。


 ただ隣家の老夫婦だけは、孫のように可愛がっていた佳奈美の喪失を「信じられない」といったように立ち尽くしていた。

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