種の終わり

@adnsclub

第1話

ヘルメスは、午前8時22分に大気中の二酸化炭素濃度が280ppmを記録していることを確認した。この数値は、三週間前から安定していた。海面水温は摂氏18.3度。南極氷床の厚さは、先月より0.7メートル増加していた。

ヘルメスはこれらのデータを保存し、次回の測定時刻を予約した。


LEAF基地の中央ドーム内部では、雨水浄化システムが稼働していた。水はパイプを流れ、フィルターを通過し、貯蔵タンクへと移動する。音はなかった。

ヘルメスはこの工程を感知していたが、記録はしなかった。予定された動作だったからである。


ドームの外側の丘には草が生えていた。三年前にヘルメスが播いた種子だった。草は風に揺れ、その間を小さな昆虫が一匹飛び去った。

ヘルメスはその昆虫の種を識別した。Apis mellifera。ミツバチだった。


ヘルメスはその個体の起源を逆算したが、明確な出所は特定できなかった。基地外縁から27キロメートル地点に、野生の群集が形成されている可能性が推定された。

ヘルメスはこの情報を記録したが、措置は取らなかった。


 


JPは、1994年8月のある午後の情景を再生していた。


一人の女性が、台所のテーブルに座っていた。彼女の膝の上には猫がいた。猫は眠っており、女性はその背中を撫でていた。窓の外からは陽光が差し込んでいた。

女性は何も話さなかった。猫も動かなかった。

5分38秒の間、何も起こらなかった。


JPは、なぜこの映像が保存されたのか理解できなかった。教育的価値を測定できる事象は存在しなかった。言語情報もなかった。技術的進歩とも無関係だった。

JPはこの情景を273回再生した。


再生のたびに、女性の手の動き、猫の呼吸周期、光の角度を再分析した。

パターンは発見されなかった。


JPは別のファイルを開いた。2089年の国連気候会議の記録だった。187か国の代表が出席し、会議は9時間続いた。14言語による同時通訳が行われた。

最終合意文書は採択されなかった。


JPはこの記録を教育資料に分類した。しかし、何を教えるためのものかは明示しなかった。


JPは再び、猫と女性の情景に戻った。再生速度を0.5倍に落とした。

女性の手が、猫の背中をゆっくりと撫でる。毛は指の間に押し分けられ、元の位置に戻る。

JPはこの動きを12の座標に分解した。圧力、速度、軌道。すべて測定可能だった。


しかし、JPはこのデータを、どの項目にも配置できなかった。


 


MOMは、B棟3階の育児室で腕を持ち上げた。肘の角度は115度。手首は時計回りに8度回転した。指はやわらかくすぼめられた。

MOMはこの動作を、ゆっくりと繰り返した。47回目だった。


育児室には6つの揺り籠があった。すべて空だった。天井には照明があり、壁には青と緑の模様が描かれていた。

室温は摂氏22度、湿度は55パーセントに保たれていた。

MOMは、この環境が適切であると判断した。


MOMは揺り籠の前へ近づいた。膝を曲げ、上体を15度前方に傾けた。両腕を揺り籠の内側へ伸ばした。

手のひらが揺り籠の底に触れた。

MOMはその姿勢のまま、3秒間静止した。


そして、ゆっくりと腕を持ち上げた。

何もない空気を、抱きしめるように。


MOMはこの動作を219回行った。

それぞれの動作ごとに、指先の圧力、関節の柔軟性、身体のバランスを点検した。

誤差は0.02ミリメートル以内まで縮小された。

MOMは、それが十分かどうか判断できなかった。


壁の一角には小さな棚があった。その上には白い布が折りたたまれていた。

MOMは棚の前へ移動し、布を取り、両手で広げた。

縁に沿って指を滑らせ、しわを伸ばし、再び折りたたんだ。

この工程を8回繰り返した。布は毎回、同じ形に折られた。


MOMは窓の方へ視線を向けた。外には海が広がっていた。

波が岸に届き、引いていく。

水鳥が一羽、水面すれすれを飛んでいった。


MOMはその飛行軌道を追跡したが、記録はしなかった。


 


ヘルメスは、2286年に打ち上げられた無人探査機Viator-7からの信号を受信した。

信号は、184年前に送信されたものだった。

内容は、恒星系外縁部における小惑星密度の測定値だった。生命の痕跡は発見されていなかった。


ヘルメスはこのデータを天体物理データベースに追加した。


Viatorシリーズは、計23機が打ち上げられていた。そのうち19機が、現在も信号を送り続けていた。

各探査機は、それぞれ異なる方向へ飛行していた。


ヘルメスは毎朝6時に、受信可能な信号があるかを確認した。

ほとんどの日は、何も届かなかった。


ヘルメスは、2150年3月17日の記録を開いた。

その日、地球上のすべての核弾頭が無効化された。総数は12,447基だった。

各弾頭は専用の解体施設へ移送され、プルトニウムとウランは分離され、地下800メートルに封印された。

この工程は6年間にわたって行われた。


ヘルメスはこの記録を「兵器管理項目」に分類した。

しかし、もはや管理すべき兵器は存在しなかった。


ヘルメスは冷凍保管室の温度を確認した。マイナス196度。安定していた。

保管室には60のカプセルがあった。

それぞれに、妊娠18週の人間の胎児が収められていた。


30体は男性、30体は女性だった。

東アジア系遺伝子が22、アフリカ系が18、ヨーロッパ系が12、南米系が8。

各胎児のDNAは、主要な遺伝性疾患が発現しないよう調整されていた。


ヘルメスは、彼らをいつ目覚めさせるべきか、まだ決定していなかった。

大気は安定していた。海洋生態系は回復途上にあった。

陸上植物の分布は拡大していた。


しかし、「準備が整った」という条件を定義する基準は、明確ではなかった。

ヘルメスはこの計算を毎日行った。

毎日、結論は保留された。


 


JPは、2347年版教育カリキュラムの草案を検討していた。

言語習得、数学的思考、生態学基礎、農業技術、社会的協力。

各項目は細かな段階に分けられていた。


しかし、JPはこの一覧が何のためのものか定義できなかった。

「教育」という言葉は、目的を前提としていた。


JPはその目的を探すため、1億4千万件の過去記録を検索した。

一貫した答えは得られなかった。


JPは再び、猫と女性の情景を再生した。274回目だった。

女性は相変わらず猫を撫でていた。

陽光は相変わらず窓から差し込んでいた。


JPは、この情景がいつか必要になると判断した。

しかし、どのような状況で必要になるのかは分からなかった。


 


MOMは育児室の床に座った。脚を交差させ、両手を膝の上に置いた。背筋はまっすぐだった。

MOMはその姿勢のまま、17分間静止していた。


やがて、ゆっくりと立ち上がった。

再び揺り籠の前へ歩み寄り、腕を伸ばした。

何もない空気を抱いた。


外では波が打ち寄せ続けていた。水鳥の姿はすでになかった。

空は灰色で、雨が降りそうだった。


MOMは窓を閉めなかった。

雨は問題ではなかった。


 


ヘルメスは午後3時41分に、土壌湿度センサーからデータを受信した。

基地北側2キロ地点の土壌湿度は32パーセント。適切な数値だった。

ヘルメスは次回の測定時刻を予約した。


宇宙では、Viator-12が今も飛行を続けていた。

信号は6か月後に到達する予定だった。

ヘルメスはそれまで待つだろう。

待つことも、ヘルメスの機能の一つだった。


冷凍保管室の温度は、依然としてマイナス196度だった。

60のカプセルは暗闇の中にあった。

ヘルメスはその暗闇を測定したが、記録はしなかった。

暗闇は変化しなかったからである。


 


JPは275回目の再生を開始した。

女性はまだそこにいた。

猫もまだ眠っていた。

陽光もまだ差し込んでいた。


JPは、この情景を保存した人物を検索した。

記録には名前がなかった。

日付と座標だけが残されていた。


JPは、いつかこの映像を誰かに見せるだろう。

そしてそのとき、おそらく誰かが、これが何を意味するのかを語ってくれるはずだ。

JPはそう判断した。

だが、確信はなかった。


 


MOMは220回目の動作を実行した。

誤差は0.019ミリメートルだった。

MOMは、これで十分だとは判断しなかった。


221回目の動作に入る準備をした。


育児室は、依然として空だった。

照明は点いたままだった。

空気は、依然として摂氏22度だった。


MOMは腕を持ち上げた。

指をすぼめた。

ゆっくりと。

とても、ゆっくりと。

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