残された痕跡
高火島での救助活動は、開始してからたった二日で打ち切りとなった。
住宅地は消滅。全てがヘドロで埋め尽くされ、有毒ガスが充満する島で人が生きている筈もない。その判断を批難する者は、一部を除いていなかった。
島の復旧……ヘドロの除去も行われない。島に島民はもうおらず、片付けをしたところで戻る者はいないのだ。有毒ガスによる事故の危険性、それと派遣に伴う費用を考慮して、放置するのが最適と考えられた。
幸恵としては、調査のためにもヘドロの除去を含めた復興は進めてほしいと思う。しかし現実問題として、予算や採算性は重要だ。誰も住んでいない、恐らく移り住む人もいない島を整備するなんて、無駄な公共事業に等しい行いと思われても仕方ない。
それに島を直接見ずとも、調べられる事はある。
「という訳で、これが島に残されていたヘドロのサンプルよ」
都内某大学の海洋環境研究室――――幸恵の勤め先にて、彼女は何本もの試験管が入った容器をテーブルの上に置く。
試験管を前にした敦は、僅かに身を捩らせ、後退りした。
「こ、これが……あの、ば、爆発したり、毒ガスが出たり、しませんよね……?」
「さぁ?」
「さ、さぁっ!? さぁって……」
「それをこれから調べるのよ」
島で泰造に話したように、ヘドロから硫化水素が発生する原理はちゃんと証明されている。
それにあの巨大物体が高火島を襲撃してから、今日で三日目だ。もしもこのヘドロ状物質が爆発するなら、とっくにしているだろう。毒ガスにしたって出し尽くしている可能性が高い。無為に消費したように思える時間が、安全性を少なからず証明していた。
しかしこのヘドロが、既知のメカニズムで硫化水素を出しているとは限らない。そもそも爆発の原理は不明であり、あの巨大物体が百メートル超えの『巨体』をどうやって動かしていたのかも分からないのが実情だ。普通のヘドロであれば試験管一本分に含まれる硫化水素は微量だろう。だが未知の方法で生成されていれば、その限りではない。もっと根本的な事をいえば、これが本当にヘドロかどうかも怪しい。
今は、安全なように思えるというだけ。それでも調べなければ何も分からない。
「一つ一つ、確かなものを積み上げていく。それが研究というものよ。分かったらさっさと準備! 教授の弔い合戦よ!」
「は、はいぃ!」
力強く号令を掛ければ、敦は大急ぎで調査のための準備を始めた。
――――ヘドロについて調査するのは、幸恵と敦の二人だけ。
理由は、高火島を襲撃した巨大物体の目撃者が、幸恵と敦の二人だけだから。この研究室には他にも多くの学生がいるが、彼等はあれを目にしていない。事情を説明しても半信半疑(むしろ半分も信じれば御の字だろう)となり、真面目に取り合わない可能性がある。
だからといって事実を隠して調べようとすれば、いくら被災地とはいえ単なる「ヘドロ調査」に学生達を投入するようなもの。一月の今の時期、卒業予定の四年生は既に卒論発表を終えているため研究室には来ず、三年生は自分達の研究テーマ探しで大忙し。院生は自分の研究がある。ただのヘドロ調査に人手を費やせば反感しか買わない。
おまけに今、大学内は勇次郎の訃報を受け、てんやわんやの忙しさ。親族との連絡や、彼の持っていた仕事の引き継ぎなどで幸恵の『要望』を聞く余裕がない。幸恵自身、正直忙しくて本格的に研究を行えるのはしばらく先だと感じている。
事実を知る二人だけでコツコツやるしかない状況なのだ。
「(さて、何が出るのやら)」
十分とは言えない環境。そして全く正体不明の存在。
勇次郎を殺した存在と思えば、少なからず憎しみも湧いてくる。島民二百五十人を殺めたと思えば、実に恐ろしいとも思う。だが……そうした感情と同等か超えるぐらい、好奇心が疼くのも自覚する。
恩師に少々失礼かとも思うが、幸恵は確信していた。一見人畜無害そうに見えて、若い頃は研究の鬼だったあの人なら――――例え島民の犠牲があろうとも、嬉々として研究に取り組んだに違いないと。
ならば真実を解き明かすのが弔いだと開き直り、幸恵は真っ直ぐにヘドロと向き合った。
尤も、それらを実際に分析するのは幸恵達ではないが。
「先生、微生物学研究室へのサンプル提出、終わりました」
「ん。ありがとう。じゃあ、今度はこのヘドロを土壌学の山崎教授に届けて」
研究室に戻ってきた敦に、幸恵は『ヘドロ入り試験管』を丁寧に梱包した箱を手渡す。
受け取った敦は、その箱をじっと見つめるばかり。何やら考えているようで、動こうとしない。
「……どうしたの?」
「え? あ、いや、その……サンプルを他の研究室に渡すのが、なんだかなぁって」
尋ねてみれば、返ってきたのはやり方に対する不満。
言いたい事は、理解しなくもない。勇次郎の弔い合戦と言いながら他研究室を頼るのは些か情けなく、また少々強欲な見方をすれば折角の『大発見』の手柄を誰かに分け与えるようでもある。
しかしながら、こうしなければそもそも幸恵達には発見すら出来ない。
「そうは言うけど、あなた、微生物の同定とか出来るの? 土壌分析のためのスペクトル解析機とか、設備は十分?」
「それは、ないですけど」
「私達はね、あくまで海洋環境学の専門家なの。微生物学や土壌学は専門外よ。自力で調べたところで、大した成果なんて得られないわ」
ハッキリと、自分達の『立場』について幸恵は述べる。
幸恵達が研究している学問は、あくまでも『海洋環境学』。海の環境について研究する科学者だ。
環境というのは一つの要素で成り立つものではない。気象、生物、土壌、そして人間の活動……それら全ての知識を持たねばならない。しかし分野が多様だからこそ、一つ一つの学問を専攻するほどの時間はない。
嫌気性細菌や好気性細菌の生態については知っていても、一目でそれがなんという種かは分からない。土壌の構成要素や生成過程は知っていても、解析するための専門的技術はない。
つまるところ器用貧乏なのだ。
とはいえこれは少々捻くれた見方でもある。そもそも現代の科学において、それだけを極めれば成り立つ分野など早々ない。生物学を極めるには今や化学と物理は欠かせず、土壌学を知るにも生物学や物理学の知識は必要不可欠。
一人の人間が幾つも習得するには、今の科学は複雑過ぎる。故に新発見をするにはそれぞれの専門家が必要であるし、頼るのが効率的なのである。
「環境というものがあらゆる要素の集合体なら、私達はあらゆる科学を纏める立場にある。全部自分でやるのは却って非効率よ」
「……はい」
「というか、あなたちょっと他分野の研究嘗めてない? そりゃあ自分の研究分野を特別視する気持ちは分からなくはないけど、どの科学分野も長い発展の歴史があって」
「す、すみません! 急いでサンプルを届けます!」
お説教の気配を察知したようで、敦はそそくさとこの場を後にする。やれやれとばかりに、幸恵は肩を竦めた。
……そうして一人部屋に残された彼女は思案する。
「(まぁ、今回のサンプルでどれだけ成果が出せるか、というのは疑問ではあるけど)」
正直なところ、依頼した研究室から『大発見』が伝えられるとは、幸恵は思っていない。ただしそれは他研究室を見下している訳ではなく、むしろ彼等ならばもしかしたらと期待しているぐらいだ。
問題があるのは自分達が用意したサンプルの方。
高火島で採取した大量のヘドロは、薄く広がった状態になっていた。
それの何が問題か? 薄いという事は、つまり表面積が広がり、尚且つ厚みが減るという事。これは中まで酸素が届きやすい状態だ。陸上では大気に酸素があるのだから、表面積が広がればそれだけ多くの酸素に触れる。厚みがなければ簡単に奥まで浸透する。理屈としては単純かつ当然のものだろう。
ヘドロというのは本来、無酸素環境で生産されるものだ。更に高火島に上陸した巨大物体の大きさを考えれば、大気中・海水中の酸素が中まで浸透出来るとは思えない。内部は無酸素状態と考えるのが自然である。
だとすると爆発後に散らばったヘドロは、活動していた時とは異なる環境に晒されていた事になる。これは『現場保存』の観点で言えば、最悪のシチュエーションだ。
「(無酸素から酸素ありへの変化ってのが厄介なのよねぇ……逆ならまだしも)」
生存に不可欠だからこそ、多くの人はいまいち実感がないだろうが――――酸素というのはかなりの『劇物』である。
例えば物が燃えるのも、酸素との結合(酸化)で生じるエネルギーが極めて膨大だから起きる事象。あそこまで苛烈な反応ではないものの、体内で起きている有機物の反応も酸化という意味では同じだ。
このため本来酸素に触れていない物質を空気中に晒すと、短時間で性質が変化してしまう事がある。性質が変わるという事は、本来の状態が失われるという事。例えば錆びた鉄は、錆びる前と比べて色も硬度も異なり、磁石にくっつく性質すら失う。全ての物質が酸化によってここまで変化する訳ではないが……元の性質が分からなければ、どのぐらい変わったかも分からず、判断しようがない。
海底深くから採取した試料なども、酸素に触れないよう厳重に扱うものだ。なのに高火島のヘドロは薄く広がり、酸素にたくさん触れている。しかもその状態で四十時間も放置されていた。果たして元の状態をどれだけ残しているか、甚だ怪しい。
そしてヘドロの生成者である嫌気性細菌も、死滅している可能性が高い。
嫌気性細菌が無酸素環境にいる理由は、それらにとって酸素が猛毒だからだ。酸素の強烈な酸化作用を制御する仕組みがなければ、酸素はエネルギーを生むどころか身体を破壊していく。逆に酸素呼吸をする生物は、その酸素が生む膨大なエネルギー生産が生きる上での前提なので、酸素がない環境だとエネルギー不足により死んでしまう訳だが。
実際には酸素の有無に関係なく生存出来る(酸素呼吸と無酸素呼吸を使い分ける)種もいるので、必ずしも死滅しているとは限らないが……死んでしまう種がいる以上、問題ないとは言えない。仮に生きていても休眠状態になったり、生態が変化したりと、酸素の有無で状態が変わるのが普通だ。やはり正しい情報は得られない。
研究者がどれだけ凄腕でも、調べるサンプルが『ゴミ』では意味がないのだ。仮に何か新しい発見があっても、それが高火島に上陸した巨大物体でも起きていたとは断言出来ない。
「(そういう意味でも、やはり島のヘドロは回収してほしいんだけど……)」
巨大物体の爆発により、ヘドロは広範囲に飛び散った。大惨事であるが、見方を変えれば大量のヘドロが、様々な状況に置かれている。
中には、直径数メートルのヘドロの塊があるかも知れない。それだけ大きければ中まで酸素が通らず、百五十メートルもの巨躯で活動していた時の状態が保たれている筈だ。そのサンプルであればかなり正確な状態を調べられる可能性が高い。
つくづく写真や動画を撮らなかったのは失敗だった。記録さえあれば、もっと強気に国や都に研究・調査の必要性を訴えられたのに。
「(或いは教授がいてくれたら、大分違ったかも知れないわね)」
勇次郎が築いたコネのお陰で、幸恵は救助活動に同行して高火島に上陸出来た。しかし存分に活かせた訳ではない。
勇次郎が生きていれば、もう少し国や都も研究を支援してくれたのではないか。巨大物体についても、ちゃんと報告出来たのではないか。
今更どうにもならない事ではあるが、現状のままならなさに色々と考えてしまう。
「せ、先生!」
そんな考え事をしていたところ、遮るように大きな声、それと喧しいほどに大きなドアの開閉音で呼び掛けられた。
恩師を『コネ』扱いしていた事への罪悪感もあって、幸恵はびくりと身体を震わせる。慌てて音が聞こえた方……研究室のドアの方へと振り向く。
すると開いたドアと、そのドアノブを掴んでいる人物――――警察官である泰造の姿が見えた。大学にいる今、彼は所謂来客だ。
「え、あ、こ、こんに」
「先生! 挨拶なんてしとる場合じゃないですよ!」
動揺を抑えるのも兼ねて一言挨拶しようとしたが……泰造はその言葉さえも拒む。
加えて顔付きは普段の愛嬌あるものではなく、鬼気迫るもの。
何か、大変な事態が起きたのだろう。そう予感させるには十分なものであった。そしてかなり悪い、出来れば聞きたくないものである事も予想が付く。
その上で。
「現れたんです! ヘドロのバケモンが、日本に!」
まさかそんな事が起こるなんてと、幸恵は思ってしまうのだった。
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