異変出現
「た、た、大変です!」
突然、敦が大きな声で騒ぎ出した。
備品置き場から駆け付けてきたであろう彼は、手ぶらだった。任せた仕事を放棄してきた事に、しかし理性的である幸恵も勇次郎も怒りなど抱かない。
ただならぬ慌てようだ。まずは事情を聞くべきだろう。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「な、なんか、なんか変なのが!」
理由を尋ねたところ、敦はそう言いながら海を指差す。
本人は大変な事が起きたと言いたいようだが、如何せん話の中身がない。幸恵はいまいち危機感を抱けなかったが、見れば何か分かるだろうかとも思い、そちらを振り向く。
敦が指差した場所は、船から数百メートルは離れた海面。
そこは水が赤黒く変色していた。変色範囲は約五十メートル……いや、刻々と拡張している。薄っすらとした程度であれば、既に幸恵達が乗る船周辺の水も僅かな赤みを帯びていた。更にごぽごぽと無数の泡が噴き出していたが、段々激しさを増している。
確かにそれは、奇妙なものだった。若く感受性の強く、それと普段から少し落ち着きのない敦が騒ぐ気持ちは幸恵も理解する。幸恵は騒がないものの、決して大事ではないなんて思っていない。
未知を前にして、幸恵はまず考え込む。正体を探ろうと、立ち止まって観察を行う。
「なんだあれは……!」
対して勇次郎は、身体が動くタイプだった。船の淵へと向かい、少しでも近くから海の様子を見ようとしてか、しゃがみ込んで視線を低くする。
瞬間、彼の身体は動かなくなった。興奮した身体の揺れ方は止まり、言葉さえも発さない。
「……教授?」
幸恵は呼び掛けてみる。
勇次郎は動かない。
それどころかずるりと、その身体は傾き、甲板の上に横たわる。
「えっ!? 教授――――」
倒れた勇次郎を見て、敦はすぐに駆け寄ろうとした。それは彼の善性故の行動だろう。
だがこの瞬間において、善意は自殺行為でしかない。
「駄目! 近付かない!」
「え? で、でも」
「教授はもう手遅れ! だから安全を確保する!」
手遅れという言葉に、敦はぎょっとしたように目を見開く。それからもう一度教授を見て、行きたそうに身体を揺らす。
人によっては、幸恵の忠告を無視して助けに向かったかも知れない。
だが敦は一旦息を飲んで、それから幸恵の元の来てくれた。まずは一安心、と言いたいところだが、そんな事を言っている場合ではない。
幸恵はすぐに船の操縦席へと向かう。曲がりなりにも海洋学者。船の操縦免許ぐらいは持っていて、この小型船も幸恵が運転して此処まで来た。エンジンを掛けてすぐ、幸恵はこの海域から距離を取る。教授の容態を気にするなら、すぐにでも
数百メートル離れた位置でさえ一メートルの厚みがあるとすれば、泡が出ていた中心付近では数メートルの厚みがあるかも知れない。そんな場所を突っ切れば全滅だ――――幸恵はそう考えていた。
「あ、あの、何があったんですか……?」
しかしそれらの考えはまだ口に出しておらず、故に操縦席の隣に立つ敦は分かっていない。
船を走らせながら、幸恵は荒く鼓動する心臓を抑えつつ、説明を行う。
「……恐らく、硫化水素よ。あの変色した海域で、大量の硫化水素が噴出している」
「えっ!? りゅ、硫化水素って、あの温泉の臭いの……? でも、そんな臭いは……」
「確かに腐った卵の臭いとはよく言われるわね。だけど、それは安全な低濃度の話よ」
硫化水素はほんの僅かな量でも死に至る危険なガスだ。
その臭いは腐った卵のようと形容されるが、濃度がある程度濃くなると嗅覚麻痺を引き起こし、逆に臭いが分からなくなる。そして一定以上の、自然の窪地に溜まる程度の濃度であっても、即死する可能性がある猛毒だ。
実例として、とある登山客が靴紐を結ぼうとしゃがんだ瞬間、地面付近に溜まっていた高濃度硫化水素を吸い込んで即死した事故も起きている。自然界に存在する『毒物』としては、最も警戒すべき物質だろう。
「硫化水素は空気より重いから、低い場所に溜まりやすい。教授はしゃがんだ事で私達よりも顔の位置が低くなったから、硫化水素を吸い込んでしまった可能性があるわ。診察していない今確実には言えないけど……ああ、離れたら刺激臭がしてきたわ。これは確定して良さそう」
「先生……」
「……自然を相手にすれば、人間の命なんて呆気ないものだけど。でもこう、もう少し別れの挨拶ぐらいさせてほしいものね」
勇次郎との出会いがなければ、果たして自分はこの道を選んだだろうか。
そう思えるぐらいには、幸恵にとって勇次郎は偉大な恩師であった。あまりにも急な別れに気持ちが追い付いていないのか、悲しみもまだよく感じられない。
或いは、そんなものを感じている場合ではないと本能的に思っているのかも知れない。悲しみも後悔も思い出も、『大自然』は汲んでくれないのだから。
「(硫化水素の発生源があの変色した海域だとして、じゃあアレは何?)」
硫化水素の発生源として考えられるものは、幾つかある。
一つは生物。硫黄還元菌と呼ばれるタイプの微生物は、硫黄化合物を分解する過程で硫化水素を出す。勿論この細菌達は人間を毒殺してやろうと思っている訳ではなく、硫黄化合物の分解によってエネルギーを得ているだけ。要するに硫黄化合物を食べて、糞として硫化水素を出しているのだ。またこの硫黄還元菌は特段珍しいものではなく、そこらの土壌や海底にも生息している。
そしてもう一つは火山。マグマに溶け込んでいる硫黄化合物から、大量に生成される。実際温泉地などでは定期的に硫化水素濃度を計測しており、場合によっては立入禁止になる事もあるほどあり触れた存在だ。こちらも単なる自然現象であり、人間云々は関係ない。
余程の事がない限り、この二つのどちらかが原因だろう。
「(微生物が作り出した硫化水素でも事故は起きているけど、こんな大海原で起きるものじゃない。なら、火山が原因と考えるべきね)」
火山説が有力であるもう一つの理由は、高火島が火山島である事。今は休火山という扱いだが、山のスケールは長大だ。数万年程度の休眠など珍しくもない。ましてや観測所がないこの島では予兆の検出も不可能。島周辺で海底火山が噴火しても誰一人気付かず、泡と共に海上までやってきた硫化水素の近くに、偶々幸恵達は近付いてしまったのではないか。
そうであれば勇次郎の出来事は不幸な事故だ。そして天災は、人を殺したからといって止まらない。
「(島まで数キロは離れているけど、風向きによっては大量の硫化水素が向かうかも知れない)」
まずは島の役所に報告。可能ならば病院で勇次郎の『死因』を確定させ、住民の避難計画を練らねばなるまい。
やるべき事を頭の中で組み立て、それが可能かどうかを検証。動き方を考えた上で、幸恵は行動を起こそうとした。
「あっ! 先生! なんか泡の位置が動いています!」
ところが行動の大前提が、今、ひっくり返ろうとしている。
最初、幸恵は敦が何を言い出しているのかよく分からなかった。無意識に海の方へと振り向く。
確かに、彼の言う通りだった。
海面にぶくぶくと噴出していた泡が、動いている。それもハッキリと目に追える、明らかに移動していると分かる速さで。
「……………は?」
その否定しようがない事実は、幸恵を呆けさせた。思わず船も止め、危険なのも忘れて凝視。何度も瞬きをしてみるが、泡の動きは止まるどころか加速し、何十メートル、何百メートルと移動していく。
泡の位置が変わる事そのものは驚くに値しない。火山活動による気泡であるなら、泡の発生源は海底となる。海面まで数百メートルの距離があり、海流や泡自体の不規則な動きにより、発生源から流される事はあり得る。他には海底の亀裂が広がる、または塞がれば、噴出箇所が『移動』したように見えるだろう。
しかし此度の移動は、あまりにも直線的。海流にしても亀裂にしても、一直線に動くとは考え難い。それに泡の移動は何時まで経っても終わらず、延々と進んでいく。
そして極めつけは、海面の変化。
まるで大きな何かが浮上しているかのように、海面が膨らみ始めている。
「まさか、そんなのは」
あり得ない――――喉まで来ていた幸恵の言葉を否定するように、膨らんでいた海面が割ける。
中から現れた、どす黒い塊によって。
「な……………あ……」
出掛けた言葉は潰え、声にもならない呻きしか幸恵の口から出てこない。敦も同じく唖然としているのか、彼の声も聞こえなくなった。
それでも幸恵の目と意思は明瞭で、故に現れたものの姿はハッキリと認識出来る。
大きさは推定百メートル。遠い上に比較対象がない海上のため正確性に欠けるが、それぐらいはありそうだと感じた。それも海上に出てきた部分だけの話。まだ海中にあるであろう、大部分の大きさは船からでは分からない。
その巨体の表面は、どろどろに溶けている。
ぼとんぼとんと表面から剥がれたものが海に落ちていた。落ちたものは海水に溶け、黒い染みとなって広がっていく。落ちていない部分もただ水に触れるだけで溶けているのか、周囲の海水も黒く染まっていた。
そんな不定形でありながら、それは『獣』のような姿をしている。
獣といってもハッキリと種を断定出来るほど、確固たる形ではない。例えるならば幼稚園児が粘土で作った、犬かライオン、或いは肉食恐竜のような……なんらかの動物を彷彿とさせる程度の造形。つまり身体があり、腕があり、そして頭のようなものがある。よく見れば頭には、口のような構造まであった。
しかしその身が本当に粘土のような柔らかさなら、百メートルもの巨躯で形を保てる筈がない。それどころか金属でも、生半可な強度・設計でも耐えられないだろう。
ましてや船よりも早く海上を進むなんて、出来っこない。
「っ!? コイツ、一体何処に向かって……」
ここまで観察して、ようやく幸恵は思い至る。
移動しているからには、この巨大な『何か』には目的地があるのではないか。疑問を持って見つめれば、答えはすぐに明らかとなる。
大勢の人々が暮らしている、高火島だと。
「不味い! 高火島の役所にすぐ連絡! 海に危険な物体が現れた事を伝えて、避難を促して!」
「は、はい!」
近くにあった道具入れから双眼鏡を取り出した幸恵は、敦に島への連絡を指示。島民に危険を知らせようとした。敦もすぐに返事をして、船に備え付けられた固定電話で島との通話を試みる。
だが、手遅れだった。
幸恵達の行動が遅かった訳ではない。海から現れた『何か』はあまりにも高速で移動しており、そして一切脇見も寄り道もせず、一直線に島へと向かっていた。最善最短最速で連絡したところで、到底間に合わない。
『何か』はスピードを緩める事もなく、島目掛けて突撃。上陸というよりも座礁するかの如く勢いで、巨体を地上へと進出させる。今や幸恵達の船とは数キロ離れた位置での出来事だが、船に積んであった双眼鏡のお陰で起きた惨事はよく見えた。
そうしていよいよ明らかになった全容は、やはり異質。
上半身は(幼稚園児の粘土細工程度であるが)多少なりと生物的な形になっていたのに対し、下半身は完全な不定形だった。塊を保つ事も出来ず、潰れるように広がっていく。陸地でも辛うじて形を保つ上半身と違い、ろくな強度がないようだ。海にいる時は途方もなく巨大に感じたが、下半身が潰れている所為で上陸時の全長は大したものではない。それでも百五十メートルはあるだろうが。
そして崩れた下半身の表面では、ぼこぼことあぶくが生じている。
「うっ、ぶ……!?」
あの泡はなんだ。そう思ったのも束の間、幸恵は思わず呻きを漏らす。
臭い。
信じがたい悪臭が、幸恵達の鼻を刺激したのである。一体なんの臭いだと疑問に思ったのは一瞬。考えてみれば答えは明らかではないか。
今、高火島に上陸している『何か』の臭いだ。そうに決まっている。身体から漏れ出たガスか何かが、風に乗って幸恵達の下に流れてきたのだろう。
理屈では理解する。しかしその理屈を感覚的に受け入れるには、少々時間が掛かった。意識が遠退きそうなほどに臭いのだから。様々な臭いの混合物のようだが、特に卵の腐ったような臭いが――――
「……まさか、あれ……」
最悪の予想が、幸恵の脳裏を過る。
その予想通りであるなら、『何か』が市街地へと進み出すのは正に地獄のような事態だろう。
『何か』は二本の腕(らしき、という表現を使うべきかも知れないぐらい不定形に近いが)を使い、這いずるように動く。流石に海ほどのスピードは出せないようだが、それでも人間の足よりは遥かに速く、島の奥へと突き進む。
百五十メートルという大きさも、前進が止まらない一因だ。市街地に並ぶ家々を、まるで気にせず踏み潰す……いや、轢き潰す。通り道には黒い泥のような、本体から剥がれたであろうものがべっとりと残り、瓦礫も道も全て塗り潰してしまう。
住民たった二百五十人の島が壊滅するのに、五分も掛からない。
【ゴォオオボオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!】
そうして市街地の四割近くを押し潰しながら進んだ『何か』は、唐突に吼えた。島から何キロも離れた幸恵達の下にも声が届く。
身体がビリビリと痺れるほどの衝撃、その衝撃さえどうでもよくなるほどの悪臭に見舞われる。声は泥をぐちゃぐちゃと掻き回すような、泡が激しく弾けるような、粘り気のある物質的な音色で出来ている。
生物が出す声とは思えない。だが咆哮と感じるからにはやはり生物的でもあって。
矛盾する印象が気味の悪さを増大させる。そんな叫びを何度も上げながら前進し続けた『何か』は、突然動きを止めた。
「何……?」
幸恵は双眼鏡越しに凝視。突然の行動変化には、なんらかの理由がある筈。そう思い『何か』の周囲を注意深く観察したが、気になるものは見当たらない。溶けた下半身が広範囲に広がり過ぎて、元々何があったか分からなくなっているのも疑問を加速させる。
だが何かがある筈だ。そうでなければ快進撃とも言える動きを、ぴたりと止めるとは思えない。
視線が何かを捉えていないか。ヒントを求めて幸恵は『何か』の頭部と思しき部位を再度確認。
その頭が、膨らんでいる事にようやく気付く。
いや、頭だけではない。『何か』の全身が急速に、目に見えるほどの速さで膨張している。それもちょっと大きくなったなんて規模ではない。百五十メートルほどだった身体が、三百メートルはあるのではないかと思うほど肥大化しているではないか。
更に上半身はギチギチと、はち切れんばかりに膨らんでいる。体表面を覆っていたどろどろしたものとは違う、明らかに肉質のもの。
あれが正体か。
高火島を襲撃した存在は一体なんなのか。それを探るため幸恵はより注意深く観察しようとする。しかし彼女の試みは失敗に終わった。
限界まで膨れ上がった『何か』は、突如爆発したのだから。
「えっ」
幸恵の口から漏れ出たのは呆気に取られた声が一つのみ。
思わず双眼鏡を下ろせば、それでも見えるぐらい大きな爆発が島で起きていた。爆発半径は不明だが、市街地を丸ごと飲み込むぐらいの大きさはあるだろう。高々と黒煙が昇っていき――――
数々の特徴を認識したところで、幸恵達の下に衝撃波がやってきた。
「あぐっ!?」
「ぎゃっ!?」
幸恵は呻き、敦が突き飛ばされる。教授の亡骸も、甲板上をごろごろと転がっていく。船は激しく揺れ、海水を被ってしまう。
この程度で済んだのは、船が島から何キロも離れていたからだろう。もう少し近くにいたら転覆していたかも知れない。あの爆発が見かけ倒しのものではなく、本物である事を物語る。
つまり『何か』は自爆した、という事だろうか。
しかしどうして? 疑問は残るが、悠長にはしていられない。あれほど巨大な爆発となれば、きっと様々なものが飛んでくる。
それこそ噴石や瓦礫、纏っていたどろどろしたものが降ってくるかも知れない。直撃すれば、痛いでは済むまい。
「可能な限り離れるわ! あと念のため頭上注意!」
「は、は、はひっ!?」
敦に指示を出し、幸恵は再び船を操作。大急ぎでこの場から離れる。
恩師の死。島の壊滅。『何か』の自爆。
自分が死んだらこれらを人々に伝える事が出来ず、謎の解明が遠退く。それ この惨事の解明が遠退く、もしくは永遠の謎となる事を意味する。恩師もきっと、それを望んではいない。
そう理性的に考える事で、幸恵は沸き立つ激情をどうにか抑え込むのだった。
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