汚泥怪獣オドロ
彼岸花
胎動の悲劇
「なんじゃ、こりゃあ……」
男はぼそりと、唖然としながら独りごちた。
男はとある島に暮らす漁師である。漁師歴はざっと五十年の大ベテラン。息子に家を継がせた後は、隠居と言いながら気ままにこの仕事を続けている。漁をするのが生き甲斐な、根っからの猟師だ。齢六十を超える身でありながら、筋肉隆々の逞しい身体付きをしている。
今日も漁のためにまだ暗い時間から海へと出ていた。男の暮らす島は日本の南方に位置し、平均気温はやや高め。それでも一月は十分に寒い。今は朝日が昇り始めてもいるが、まだまだ肌寒い。そして船を動かせば海水が飛び、身体も濡れる。並の人間ならすぐに凍えてしまうだろう。
しかし長年この暮らしを続けてきた男にとって、この程度の寒さ冷たさなどどうという事もない。むしろ温かな家に引きこもったら、身体どころか脳も引き締まらず、一瞬でボケてしまいそうだとすら思う。
それほど経験豊かで、幼い頃から海で暮らしてきた彼ですら、今朝の海は見た事がない。
いや、見た、という表現は正しくない。厳密に言うならば嗅いだ事はない、だ。
彼の船が浮かぶ海からは、猛烈な悪臭が立ち込めていた。
「くそっ。こんなんじゃ魚を捕る気にもならねぇ」
鼻が曲がる、なんて言葉さえ物足りなく思うほどの臭さだ。鼻が痛くなるほどの刺激臭の中に、微かな甘ったるさも含まれる。臭いというだけなら、赤潮が来た時などに幾度となく嗅いでいるが……今回の悪臭はそれらとは明らかに違う。
加えて赤潮なら、文字通り海の色も赤く変貌する。しかし今の海は、猟師歴五十年のこの男から見ても異変のない、青く澄んだ美しさがある。
おまけにこの悪臭、少なくとも漁に出た直後は漂っていなかった。もし港近くで嗅いだなら、迷わず回れ右して陸地へと帰っただろう。こんな腐ったような海では、魚が捕れるとは思えないからだ。実際、臭いがするまで魚は(何時もよりかなり少なかったが)捕れていたが、臭いがし始めてからぱったりといなくなった。
何かが起きているのは間違いない。間違いないのに、何が起きているのか全く分からない。
「赤潮じゃねぇなら、一体なんなんだこりゃあ……」
未知の現象を前にして、男は原因を探ろうとする。
そもそもこの悪臭は何処から来ているのか?
海から、と言いたいが、船が浮かんでいる海域は今まで通り透き通った状態。赤潮が発生していないのだから、この辺りの出来事ではないだろう。ならば遠くから、風に乗って漂ってきたのかも知れない。
風を肌で感じながら、その風の方へと目を向ける。
――――瞬間、男はギョッとしたように目を見開いた。
ごぽごぽと泡立つ何かが、遥か彼方の水平線近くの水面に見えたがために。
「な、な、んだ、ありゃ……」
驚きながらも凝視する男。故に気付く。
泡立つ範囲が、恐らく半径数十メートルもの広範囲である事。
そしてそれが猛烈な勢いでこの船、或いは陸地のある方に移動している事だ。
「っ!」
男はすぐに船を操縦。泡立つ水面から離れようとする。
船の動きは、お世辞にも俊敏とは言えない。しかし男の迅速な判断により、泡立つ何かが隣接するよりも前に、この場から離れられた。
その泡立ちは男の船を狙っていた訳ではないらしく、船があった場所を一直線に通り過ぎていく。Uターンする素振りもなく、どうやら端から男の船に興味はなかったらしい。
安堵したのも束の間、更なる異変に男は気付く。
魚が次々と、水面に浮かんできたのだ。
一匹二匹ではない。何十、何百……数え切れないほどの魚が、次々と浮かんできた。種類に統一感はなく、生息地が浅瀬のものも深海のものも関係なく浮かぶ。そして魚達はぴくりとも動かず、一目で死んでいると理解出来た。
「お、おい、これは……」
あまりに異常な光景を前にして、男は思わず船から身を乗り出す。この海で何が起きたのか、生活の糧である魚の死の原因を確かめたかった。
だが男は失念していた。
「ぁ?」
意識の混濁を感じ取れたのはほんの一瞬。
男には何も分からない。何かを考える前に、その意識は消え失せてしまう。
男は既に死んでいた。
死んだ身体は自らの重さによって前のめりに倒れる。船から乗り出した身体の先にあるのは、彼がこれまで生活の糧を得ていた海。
どぼん、と音を立てて身体は海へと還る。浮かんできた魚達と違い、水底へと真っ直ぐに沈んでいく。
……その日の午後には、男は不明不明扱いとなった。
家族は悲しんだが、同時にある程度は受け入れていた。海の仕事は危険だ。どれだけ気を付けても、一歩間違えばたちまち死を引き寄せる。何時か男が海で死ぬと、家族の誰もが思っていた。
だから誰も思わなかった。
この後世界を襲う『破局』の最初の犠牲者、それが自分の家族であったなんて微塵も。
尤も、思う暇もなく遺族もまた男の後を追う事になるのだが――――
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