第4話

 踊りが始まる。

 そこは、完全に私たち二人のためだけの空間だった。


 周囲の喧騒は遠のき、世界から色が消え、ただスポットライトのような眩い光の中に二人だけが残されたかのような錯覚。


 アルフォンス様の背が高いために、彼を見上げようとすると、頭上の巨大なシャンデリアが放つ無数の光が目に刺さり、眩暈を誘う。

 円形に幾重にも重なる貴族たちの視線は、真夏の暴力的な太陽光のように、私の肌をチクチクと苛んだ。


 現実感がまるでない。


「これは夢だ」と、私は半ば自分に言い聞かせ、確信しようとする。けれど、零れたシャンパンの冷たさと汚れの残るメイド服の感触が、冷水シャワーのように私を肌寒い現実へと引き戻す。


 汚れきった地味なメイドと、勲章の輝く軍礼装を見事に着こなした侯爵。

 このあまりに不釣り合いな対比に、私は夢心地と喪失感の間で激しく揺られながら、何とかステップを刻む。


「エルナ」


 踊りの最中、彼が私の名を呼ぶ。

 この伝統的な舞踏の礼法では、踊りながら互いの名を呼び合うことまでが、一つの様式として組み込まれている。私はあくまで「舞踏の作法」として、彼の名に応えた。


「……アルフォンス様」


 驚いたことに、彼は非の打ち所がないほど完璧な踊り手だった。

 私もそれなりの教育こそ受けたものの、実力は中の下といったところだ。恥をかかない程度のステップを知っているにすぎない。

 けれど、アルフォンス様は違った。これまで幾多の夜会で見てきた男性たちとも、ダンスを教えてくれた教師とも、そのリードは次元が異なっていた。

 

 力強く、それでいて驚くほどしなやか。

 それでいて武人ならではの強靭さが生み出す動きの線は、どこまでも優雅で淀みがない。

 それは、踊っているというよりは、何かに「乗っている」ような感覚だった。荒れ狂う波間にあっても、彼という揺るぎない船に身を委ねていれば、どこまでも心地よく飛べるのではないか。

 あまりに気持ちのいいそのリードに、私の心はいつの間にか、恐怖さえ忘れて吸い寄せられていった。


 夢心地の時間は、微睡みから覚める時のように、あまりにも呆気なく幕を下ろした。

 音楽の最後の一節が空気に溶けて消えると、広間には霜が降りたかのような、重く冷ややかな沈黙が立ち込める。


 けれど、不思議と寒さは感じなかった。

 その理由は、すぐ目の前にある。


 私を見つめるアルフォンス様の視線が、驚くほど温かかい。

 あの氷の海のように冷たい色をした瞳から、どうしてこれほど情熱的で、体温を感じさせる熱量が放射されるのだろう。


 これから浴びせられるであろう罵詈雑言や、執拗な嫌がらせの予感はある。それでも、私の心に不安の影はなかった。

 こんな奇跡のような経験を一度でもできたのなら、もうそれでいい。このまま命を落としたとしても、悔いはない――それは究極の諦観に近い感覚だったが、同時に、胸のすくような晴れやかさが私を満たしていた。


 わざわざ周囲を見渡す真似はしない。私はただ、見上げる先にいるアルフォンス様だけを瞳に映していた。

 責任を取ってほしいなどと願うつもりもなかった。彼の手を取り、その誘いに応じたのは、他ならぬ私自身なのだから。

 ただ、一つだけ、どうしても聞いておかなければならないことがあった。


「……なぜ、私をダンスに誘ったのですか?」


 静寂に支配された会場で、私の声は思いのほか明瞭に響き渡る。

 別に張り上げたわけではない。けれど、水面に落ちた一滴の雫が波紋を広げるように、その問いは周囲の人々の耳へと露骨に届いていった。

 アルフォンス様は周囲の反応など一顧だにせず、極めて淡白に、けれど真摯に言葉を返した。


「君と、目が合ったからだよ」

「……あまりに曖昧な答えですね。納得がいきません」

「納得などしなくていい。そもそもこれは、理解の問題ではないからね」


 どこか意地悪な気分になった私は、さらに言葉を重ねた。


「他に目が合った方など、いくらでもいらしたはずです。これほどの人だかりですもの、貴方様を見つめていたのが私一人であるはずがありません」


 すると彼は、芝居がかった動作でざっと周囲を見渡し、口角をわずかに上げた。


「視線が合った者なら、確かに大勢いる。だが、『目が合った』のかどうかは別問題だ。視線が合うのは理性的な現象だが、目が合うというのは、本能的な現象だからね」

「詩的な言い回しですね……ますます貴方様のことが理解できなくなりました」

「それでいい。いや、むしろそうであってほしいな」

「理解されたくない、と?」

「そうだ」


 彼はどこか重々しく頷いた。


「理解されるということは、弱味を握られるということだから。人は理解されるほど、脆くなるもの」


 そんな密やかな会話を交わしていた、その時だった。

 横から鋭い気配を纏った影が、迷いのない足取りで近づいてきた。


「ベルンハルト団長」


 私とアルフォンス様は、同時にその声の主へと視線を向けた。

 そこに立っていたのは、一分の隙もない理知的な美貌を備えた青年だった。

 柔らかなアッシュブロンドの髪。本来ならば穏やかな慈愛を湛えているであろうその顔立ちには、今、非常事態を告げる険しさが刻まれている。


「エドガーじゃないか」


 アルフォンス様が、親しみを込めて短く応じる。

 エドガー・ライオネル・ヴァレンタイン。

 王立第二騎士団の副団長であり、アルフォンス様の右腕。

 そして、二人は幼少期からの無二の親友であると聞き及んでいる。彼もまた、アルフォンス様さえいなければ、どこへ行っても主役を張れるほどの輝きを放つ貴公子だった。

 そのエドガー様が、複雑な感情を押し殺したような、極めて短い問いを投げかける。


「……ご存じないのですか?」


 主語を排したその問いに、何に対してだ、と聞き返すような無駄な真似をアルフォンス様はしなかった。


「わかっている。もちろん、すべてね」

「ならば、一体なぜ……!」


 詰問するようなエドガー様の言葉に、アルフォンス様は気心の知れた友に見せるような仕草で、軽く肩をすくめてみせた。


「目が合ってしまったのだから、仕方がない」

「ふざけないでください」


 エドガー様の一喝が飛んだ。その響きだけで、二人がどれほど深い信頼で結ばれているかが伝わってくる。

 けれど同時に、私は身がすくむような恐怖を感じていた。

 エドガー様の瞳に宿る、私への明らかな敵意。


「皆様が見ておいでですよ」

「ああ、舞踏会だからね。視線が集まるのは仕方のないことだ」

「冗談を。今すぐその娘から手を離すべきです。これは貴方個人だけの問題ではありません。騎士団全体の問題でもなります」


 だがアルフォンス様はなおも私の手首を掴んだまま、静かに歩み出した。私は抗う術もなく、彼の導くままに足を進める。

 エドガー様が焦燥を滲ませ、背後から追いすがってきた。


「その娘を離してください。ダンスはもう終わったはずでしょう!」

「ダンスが終われば、それで幕引きだとでも?本番はここからだよ」

「またそうやって禅問答のようなことを……!」


 食い下がるエドガー様を振り切るように、アルフォンス様は歩調を緩めない。だが、その言葉にはこれまで以上の熱が宿っていた。


「今ここでこの子の手を離せば、その後、彼女がどんな目に遭うか想像がつかないのか?」

「それを招いたのは、他ならぬ閣下ではありませんか」

「だからこそ、私が収拾をつけなければならないと言っているんだ」

「ならば、まずはこの国最強の騎士団を率いる長としての責任を優先すべきです!」


 エドガー様の正論が響く中、アルフォンス様は堂々と広間を横切りながら、朗々と声を上げた。


「騎士とは何か。弱きを助け、守り抜く者ではないのか?ならば、この舞踏会という名のジャングルに放り出され、飢えた獣たちに引き裂かれようとしている草食動物のような少女を、そのまま放置して去るなど……騎士としてあるまじき行為だろう」

「それは、あくまで閣下が独断で……!」


 なおも反論しようとする副官を遮り、若き騎士団長は宣言した。

 一瞬、ぴたりと足を止める。その一動だけで、広間の全注目を自らに引き寄せ、凍りつくような沈黙を支配下に置く。

 彼は副官であるエドガー様を真っ向から見据え、毅然と言い放った。


「私は王国の騎士団長として、この子を守ると決めた。問答無用だ。これ以上の異論は、私に対する反逆と見なす」


 その声は、広間全体を震わせるほどの威厳に満ちていた。

 私と踊っていた時の囁きとは違う。戦場において千の兵を従え、死地へと赴く軍神が放つ、抗いがたい力と厳格さを宿した声。


 広間を支配する沈黙の質が、一気に塗り替えられた。

 重力そのものが変質したかのような圧迫感に、あのエドガー様でさえも一瞬だけ言葉を失い、怯んだように顔を強張らせる。


 もはや、彼の足を止められる者はこの場に一人としていなかった。

 エドガー様さえも沈黙させたアルフォンス様は、私の手をさらに強く、けれど慈しむように握り直した。


「行こう」


 どこへ、と問い返す余力も、その理由さえも見つからなかった。

 ただ、彼の強引なまでの導きに従い、私は再び歩き出す。


 ダンスホールの時と同じように、人々は潮が引くように道を開けた。

 向けられる視線の礫は、床に散らばる茨の刺のように私の足元を脅かしているはずだった。けれど、アルフォンス様に手を引かれている今、まるで頑丈な長靴を履かされているかのように、その刺が私の肌に届くことはなかった。


 一度も振り返ることなく私たちは出口へと向かい、そのまま夜の闇の中へと連れ出されていった。

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