私は白い蛇神様の花嫁になる。

白鷺雨月

第1話 痣のある娘

 大正末期の春。

 帝都ではモダンガールやモダンボーイが闊歩していた頃である。

 紀州と奈良の境にある村はいまだに江戸時代とそうかわらない生活を送っていた。

詩乃しのさん、おめでとうございます」

 村長の娘である多江たえが祝いの言葉を述べる。

 

 梅の花がようやく咲き始めたころ、有鱗村ゆうりんに住む詩乃は、とあるところに嫁ぐことが決まっていた。

 多江におめでとうと言われたが、詩乃は特に嬉しくはなかった。

 それは詩乃が嫁ぐ先が人ではなく、この村の神社に住むと言われている蛇神であったからだ。


 有鱗村には一つの風習がある。

 それは三十年に一度、村に住む十六歳の娘のうち、選ばれた者が蛇神に嫁がなくてはいけないということであった。

 蛇神に村娘が嫁ぐことによって、蛇神の加護を受けることができる。

 故に、この村はこのような山奥にあるにもかかわらず豊かであった。

 米は良く穫れ、鹿や猪などの獲物も良く捕れた。茸や山菜なども豊富に穫れた。

 故に村に住む者たちはこの風習を絶やしてはいけないと考えた。

 このような山奥の村ではあるが、そこそこには豊かな暮らしが出来るのは蛇神様のお陰だと考えた。

 故に村娘を嫁がせることを絶やしてはいけないと。


 そうして今代の花嫁に選ばれたのが詩乃であった。

 詩乃が選ばれたのには、理由がある。

 それは彼女に貰い手がなかったからだ。

 詩乃はひどい言い方であるが、村一番の醜女と呼ばれていた。

 詩乃の左目あたりに大きな青痣があったからだ。右半分の顔が美しかっただけに、左半分がより際立って見えた。

 それに詩乃には両親がいない。

 詩乃の両親は十年前にスペイン風邪でふたりともこの世を去った。

 詩乃は村長の家で下女として、働いていた。

 同い年の多江をお嬢様と呼ぶ生活を送っていた。


 嫁の貰い手もない、醜い娘ならば、蛇神様の嫁にはうってつけだと村の皆は考えた。

 そして詩乃本人も、それは仕方がないと考えていた。村長の家で下女として働くよりも、いるかいないかも分からない蛇神の嫁として生きるほうが、まだましだと思った。

 

 いつもはみすぼらしい着物を着ていた詩乃であったが、この日は白無垢姿であった。化粧も初めてした。

 化粧をすると詩乃はわずかに胸が高鳴るのを覚えた。とっくに女として生きることはあきらめていた詩乃であったが、はからずもときめいてしまった。

 白無垢姿になり、化粧をしてもらい、詩乃は村長の家である人物を待っていた。

 それは蛇神の先代の嫁であり、巫女の高子たかこが迎えに来る予定であった。

 しかも、この日はたまたまであるがこの有鱗村に客人が訪れていた。


 有鱗村に客人が訪れることは非常に珍しい。

 紀州と奈良の境にある村に来るものなど行商人を除けば、よほどのもの好きであった。

 そしてその男は、もの好きであった。

 男は自分をのことを帝都から来た学者だと言った。

 村人たちはその男の言う事を信じなかった。

 男はとんでもなくみすぼらしく見えたからだ。

 着物は年季がはいり、つぎはぎだらけだった。髪は短く、白い。肌は浅黒く、深いしわが刻まれている。年の頃は六十手前だろうか。

 ただ古い着物を着てはいるが、その眼鏡の奥の瞳は生命力にあふれていた。

 背筋もぴんと伸び、歩く姿はどの村人よりも機敏であった。


「俺は南方熊楠。このあたりの茸を調べている」

 男はそう名乗った。

 残念ながら、南方熊楠という学者の名を知るものはこの村にはいなかった。

 ただ、珍しい客人であることには間違いないので、もてなすことになった。


 南方熊楠と名乗る男は蛇神に嫁ぐ前の詩乃と面会した。

 高子が迎えに来るには、まだ時間がある。

 詩乃が蛇神に嫁げば、外界からの接触はほぼなくなる。神社の奥で外に出ることなく暮らすことを余儀なくされるのだ。

 下女である詩乃であったが、このときばかりは村長は彼女のことを考えてくれた。

 せめてもの気晴らしに客人と話をすることを許した。


 詩乃が待つ広間に南方熊楠はとおされた。

 二人には玉露の茶が振る舞われた。

 玉露の茶などのむのは、詩乃は生まれ初めてであった。

「やあ、あなたがあの大神神社に嫁がれる人なのかい」

 南方熊楠は詩乃の前にどかりとあぐらをかいて、座る。ぽりぽりと白髪頭をかいた。

「はい、そうです」

 詩乃は答える。

 答えたものの、なんだか他人事のように思えた。

「このデモクラシーの時代にまだこのような風習があるのだな。斎王代のようなものか」

 ひとりでうんうんと頷き、南方熊楠は言った。

 詩乃は両手で茶碗を持ち、温かい玉露を一口飲んだ。爽やかな甘さが口に広がる。

「村一の醜女である私が、村の役にたつのはこれぐらいですから」

 詩乃は言った。

 このまま村にいても、嫁ぎさきもなく、村のお荷物になるのは目に見えていた。

 なら、蛇神に嫁ぐことで村の役にたつのなら、それでよかった。

「そうかな。あんたが言うほど醜くはない。顔の美醜など皮一枚のことにすぎん」

 弱冠鼻息あらく、南方熊楠は言う。

 不思議な男だと詩乃は思った。

 見た目はみすぼらしいのに、彼のまとう空気はどことなく高貴さすらあった。どこか神聖さすら感じられた。

 自分の顔を初めて、醜くないと言われ、詩乃は正直に嬉しかった。

 この後、南方熊楠は詩乃のために遠い異国の話をした。驚いたことに南方熊楠は摂政殿下にもあったと言うのだ。

 しかも南方熊楠はキャラメルの箱に粘菌を入れて、摂政殿下に献上したという。

 南方熊楠の話は面白く、時間はすぐに過ぎた。

 現し世での最後にこのような面白い人に会えて、詩乃は良かったと心の底から思った。



 日が沈むころ、先代の蛇神の妻である高子が詩乃を迎えに来た。

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