オルディナの明星

秋山凛玖

プロローグ

 闇に閉ざされた空間に、赤子の泣き声が木霊していた。

 オルディナ帝国が誇る壮麗な帝都ランライト。文明の花開いた都、その地下深くに築かれた牢獄の、湿り気を帯びた冷たい石畳の上で、場所に似つかわしくない無垢な赤子が、ひとりの女囚の腕に抱かれ、あやされている。

 この赤子は罪を犯したわけでもなければ、この不浄な牢で産み落とされたわけでもない。

 

 遡ること半年前、オルディナはかつてない混迷の渦中にあった。

 帝国には、英邁えいまいの誉れ高く、民からの信望も厚い皇太子がいた。皇帝からの寵愛も一身に受けていたはずの彼に対し、ある時、彼を疎んだ奸臣かんしんが毒牙を剥いたのである。


「陛下ッ! 猶予はございませぬ! 皇太子殿下は既に、初代皇帝が聖霊と結んだ盟約に背く『禁呪』の儀式を最終段階へと進めておられます。詠唱の月が満ちる今宵を過ぎれば、陛下の御命は魂ごと霧散し、この帝都は死の魔力に呑み込まれるでしょう。今、この瞬間に断を下さねば、オルディナは永遠に失われまする!」

 

 悲鳴にも似た、猛毒の讒言ざんげんであった。

 半世紀以上にわたる治世の果て、老いとともに猜疑心さいぎしんを深めていた老皇帝は、この言葉に正気を奪われた。恐怖と怒りに突き動かされるまま、皇帝は震える手で処刑の剣を指し示し、自らの継承者である皇太子を誅殺。粛清の嵐は一族郎党、縁者にまで波及し、その骸は万を数えたという。

 血の嵐が吹き荒れる中、ある獄吏ごくりが、処刑を待つばかりとなっていたひとりの赤子を不憫に思い、密かに自らが管理する牢へと匿った。

 赤子の正体は、亡き皇太子の孫――皇帝の曾孫にあたる血筋である。獄吏はその身分を誰にも明かさぬまま、できる限り情の深い囚人を選び、その腕に幼子を託したのだ。

 

 やがて、あまりに多くの犠牲を払った後に、皇太子の冤罪が発覚する。

 真実を知り、悔恨によって深く心を病んだ皇帝は、罪滅ぼしのように大赦令を発した。これにより、赤子は数ヶ月ぶりに地下牢の闇から解き放たれ、獄吏の知人である商家へと預けられることとなった。

 皇籍から抹消されていた身分は一応の回復を見たものの、血塗られた政争の火種となることを恐れられ、帝位継承権はおろか、王侯に封じられることすら危うい立場に置かれた。

 商家の妻は、この厄介な「高貴な捨て子」を引き取ることに難色を示したが、家主の強引な決断により、赤子は辛うじて安住の地を得た。

 

 帝国歴432年。

 皇帝が築き上げたオルディナ第一の全盛期は、静かに、しかし確実に終わりを告げようとしていた。

 地下牢で産声を上げた幼子が、自らの運命を知る由もないまま、野心と野望がもつれ合う動乱の世が幕を開ける。

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オルディナの明星 秋山凛玖 @RAY__LAW

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