第1話 『調査官』
柏木隆文は、ラーメンを啜っていた。
午後九時。新宿の路地裏にある、馴染みの店。
カウンターだけの狭い店内には、柏木の他に客は二人しかいない。壁に据え付けられた小さなテレビが、ニュースを流していた。
四十二歳。公安調査庁調査第二部、調査官。
宗教団体やカルト組織の調査を専門とする部署で、十五年のキャリアを積んできた。
オウム真理教の残党、カルト教団の関連団体、新興宗教の詐欺事件——日本の闇に潜む「信仰」の歪みを、幾度となく見てきた男だった。
今日は珍しく早く仕事が終わり、久しぶりにゆっくりと夕食を取っていた。
「——本日午後、全国各地で発生した集団食中毒事件について、新たな情報が入ってきました」
テレビのアナウンサーが、緊張した声で告げた。
柏木は、箸を止めた。
「——現時点で確認された死者は、全国で五万人を超える模様です」
「……は?」
思わず、声が出た。
五万人? 食中毒で?
「——被害は北海道から沖縄まで全国に及んでおり、学校給食を食べた児童生徒を中心に、飲食店の利用客にも多数の死者が出ています」
画面に、各地の病院の映像が映し出された。
救急車が列をなして到着する様子。
担架で運ばれる子どもたち。
泣き叫ぶ親たち。
柏木は、ラーメンの存在を忘れていた。
——何だ、これは。
十五年、公安調査庁で働いてきた。
オウムの地下鉄サリン事件ですら、死者は十三人だった。
五万人が同時に死ぬテロなど——
人類史上、例がない。
◆
柏木のスマートフォンが鳴った。
画面を見ると、上司の名前が表示されていた。
「柏木です」
『今日のニュース、見たか』
「今、見てます」
『緊急招集だ。明日から合同捜査本部が立ち上がる。うちからも人を出す。お前も入れ』
「……公安調査庁が、食中毒事件を担当するんですか?」
『食中毒じゃない。これはテロだ。しかも、宗教団体が関与している可能性がある』
柏木は、息を呑んだ。
宗教団体。
五万人を殺した宗教団体。
「……何か、情報があるんですか」
『まだ断片的だが、複数のルートから同じ名前が上がってきている。還郷会——聞いたことがあるか』
――『還郷会』。
柏木は、記憶を探った。
「……確か、十年くらい前から活動している新興宗教ですね。『真の故郷への帰還』を教義とする。信者は四、五百人程度。今まで、特に問題を起こした記録はなかったはずですが」
『ああ。だから監視対象から外れていた。だが、今回の事件で名前が浮上した。給食センターや飲食店への食材供給ルートを調べると、還郷会の関係者に行き着くらしい』
「……分かりました。明日、本庁に出ます」
『ああ。それから——』
上司は、少し言葉を詰まらせた。
『覚悟しておけ。これは今まで見たことのない事件だ。オウムとも違う。俺も、正直言って、何が何だか分からん』
電話は、そこで切れた。
柏木は、しばらくスマートフォンを握ったまま、テレビの画面を見つめていた。
「——原因となった食材については、現在も調査中ですが、複数の給食センターおよび飲食店から、同一の不明な物質が検出されたとの情報があります」
不明な物質。
柏木は、眉をひそめた。
——毒物なら、すぐに特定できるはずだ。
——「不明な物質」というのは、どういうことだ。
サリンでも、VXガスでも、青酸カリでも——既知の毒物なら、分析すれば分かる。
「不明」ということは、既知の毒物ではないということか。
「——また、被害者の多くが死亡直前に『帰りたい』という言葉を発していたとの証言が相次いでいます」
帰りたい。
五万人が、同じ言葉を遺して死んだ。
——「還郷」会。
——「帰りたい」。
偶然の一致か?
柏木の中で、調査官としての本能が騒いでいた。
この事件には、何かがある。
普通の犯罪では説明できない、何かが。
◆
帰宅したのは、午後十一時を過ぎていた。
一人暮らしのマンション。
妻とは五年前に離婚した。子供はいない。
仕事ばかりで、家庭を顧みなかった。
妻に愛想を尽かされたのも、当然だった。
今は、調査官という仕事だけが、柏木の人生だった。
宗教団体の闇を暴くこと。
歪んだ信仰に騙された人々を救うこと。
それだけが、自分の存在意義だと思っていた。
リビングのソファに座り、缶ビールを開けた。
テレビをつけると、まだ同じニュースが流れていた。
「——死者数は、さらに増加しており、現時点で五万三千人を超えています」
五万三千人。
たった半日で。
柏木は、ビールを一口飲んだ。
味がしなかった。
画面には、病院の廊下に並ぶ遺体袋が映し出されていた。
小さな遺体袋。
子供の遺体袋だ。
「……くそ」
柏木は、顔を歪めた。
十五年、公安調査庁で働いてきた。
人の死には——間接的にではあるが——何度も触れてきた。
でも、子供の死だけは——
今でも、慣れることができない。
「——必ず、暴いてやる」
柏木は、誰にともなく呟いた。
還郷会が関与しているなら、必ず証拠を掴む。
五万人を殺した連中を、必ず裁きの場に引きずり出す。
それが、調査官としての自分の仕事だ。
◆
その時——ふと、窓の外に目をやった。
マンションの八階。
向かいには、同じ高さのマンションが建っている。
その屋上に——
誰かが、立っていた。
「……?」
柏木は、目を凝らした。
夜の闇の中、白い服を着た人影が見える。
女性のようだった。
長い髪が、夜風に揺れている。
そして——
こちらを、見ている。
柏木と、目が合った気がした。
「……何だ?」
立ち上がり、窓に近づこうとした瞬間。
人影は、消えていた。
最初から、誰もいなかったかのように。
「……気のせいか」
柏木は、首を振った。
疲れているのだろう。
明日から、長い戦いが始まる。
今日は、早く寝た方がいい。
柏木は、テレビを消し、寝室に向かった。
——あの時、気づいていれば。
——窓の外に見えた女性が、何者だったのか。
——なぜ、自分を見ていたのか。
後になって、柏木は何度も考えることになる。
あの夜——
彼女は、すでに柏木を見ていた。
自分を追ってくる調査官の姿を。
最初から、見ていたのだ。
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