第6話 姿なき挑戦者

 ——久遠刹。

 

 その名を頭の中でなぞった瞬間、澪の内側で凍りついていた時間が、音を立てて逆流し始めた。

 

 意識の底に沈めていた記憶が、鮮烈な色を伴ってせり上がってくる。

 

 十年前。まだ、この世に「理不尽」があることすら知らなかった、あの呪われた夜。

 

 鼻を突く鉄錆の匂い。

 九条家の屋敷を埋め尽くした、死の静寂。

 返り血を浴びて笑う実兄・朔夜。

 その足元に物言わぬ肉塊となって転がる両親。

 五歳の澪にできたことといえば、己の喉を掻き切らんとする刃を前に、ただ震えることだけだった。

 

 だが、絶望が完成しようとしたその刹那。

 闇を切り裂いて、それは現れた。

 

 網膜を焼くような、鋭く、けれどどこか悲しいほどに美しい銀色の閃光。

 

 光の中に立つ背中は、自分とさほど変わらない少年のものだった。

 

 振り返った彼の瞳は、凍てついた冬の星のように澄んでいて――。

 

「……大丈夫。君は、僕が守るから」

 

 その一言が、死を待つだけだった澪の心を呪縛から解き放った。

 

 直後、澪の意識は深い闇に落ちた。


 次に目覚めたのは、白すぎる天井と、叔母のむせび泣く声が響く病院のベッドの上だった。

 叔母から震える声で告げられたのは、両親の死と、兄の失踪だった。

 

 あの日から、澪の時計は止まったままだ。

 

 悪夢を振り払うために、ただひたすらに剣を振った。

 掌が裂け、意識が遠のくまで己を追い込んだ。

 眠ればあの日が蘇る。なら、眠らなければいい。

 

 そんな狂気にも似た日々を支えていたのは、ただ一つの願い。

 あの日、空っぽになった澪の世界に注がれた、ただ一つの想い。


 ――もう一度、あの「銀色の光」に会いたい。

 

 そして今。

 

 十年もの間、祈るように探し続けてきた背中が、目の前にある。

 

「久遠……刹、くん」

 

 震える唇で、もう一度その名を紡ぐ。

 刹と呼ばれた少年は、表情を殺したまま澪をじっと見つめ返した。

 その瞳は、十年前の記憶をなぞっているのか、あるいは何も見ていないのか。

 

「……九条」

 

 低く、どこかひび割れた声。

 名字を呼ばれただけで、澪の胸がぶわりと熱くなる。

 

「九条、澪です。……覚えて、いてくださったんですね」

「……覚えている。あの時、助けた。それだけだ」

 

 あまりに淡々とした、事務的な応答。

 再会の喜びなど、彼の内側には一欠片も存在しないかのようだった。

 

「それだけ、なんて……。私は、あなたに……!」

「あの、九条さん?」

 

 感情が溢れ出しそうになった澪の言葉を、しずくの困惑した声が遮った。

 彼女は、ただならぬ雰囲気を漂わせる刹を警戒するように見つめている。

 

「その方は……一体、何者なんですか? なぜこんな場所に」

「任務だ」

 

 刹は、しずくへ視線を移すと、感情を切り捨てた声で言った。

 

「異常な世界圧の感知を確認した。調査、および……脅威と判断した場合の排除。それが俺の役割だ」

「任務……? では、貴方も私達と同じ、学園の生徒なのですか?」

 

 刹は、わずかな沈黙のあと、重々しく首を縦に振った。

 

「……形式上は、そうなる。そこにいる九条の、同級生だ」

 

 その言葉が、澪の胸に小さな、けれど確かな希望を灯した。

 同級生。同じ学び舎に通っている。

 なら、もう離ればなれになることはない。

 

 失われた十年を埋めるように、言葉を重ねて、今度こそ――。

 

「なぜ、今まで名乗り出てくれなかっ……」

 

 言いかけて、澪は息を呑んだ。

 刹の体が、幽霊のように不自然に揺らいだ。膝が折れ、地面に吸い込まれそうになる。

 

 先ほどの戦闘の影響か。彼は青ざめた顔で歯を食いしばり、どうにか踏みとどまっている。

 

「久遠くん!」

 

 思わず駆け寄ろうとした澪だったが、

 

「……近づくな」

 

 刹の鋭い制止の声が、彼女の足を氷のように縛り付けた。

 それは、明確な拒絶だった。

 

「俺に、触れるな」

「でも!そんなに辛そうなのに……」

「大丈夫だと言っている」

 

 彼は突き放すように、冷徹な壁を築き上げた。

 その瞳の奥に、十年前にはなかった、底知れない孤独の影を見た気がして――澪は伸ばしかけた手を、虚空で止めるしかなかった。





 嵐のあとの、ひどく冷え切った静寂だった。

 焦げた土と、消えゆくドラゴンの残滓が混じり合い、樹海に不快な霧が立ち込めている。

 

『――第三班、応答せよ。状況を報告しろ』

 

 通信機から響いた硬質な男の声が、戦いの終わりを告げた。

 吼が、震える指先でスイッチを押す。

 

「……こちら、第三班。狗神です」

『狗神か。無事だな』

「……一名、失いました。……柏木隆也が戦死しました。何も…できませんでした」

 

 吼の声は、最後に小さく掠れた。

 通信の向こうで、わずかな絶句が流れる。

 

 死。


 それがこの「学園」において日常の一部だとしても、たった今さっきまで背中を預けていた仲間が死んだ事実は、胃の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさを伴っていた。

 

『……了解した。すぐに向かう。そのまま待機せよ』

 

 数分と経たず、樹海の奥から四つの人影が躍り出た。

 

 学園の教員たちだ。

 先頭を行くのは、戦闘科主任・神崎だ。

 刈り込まれた短髪に、ナイフのように鋭い眼光。

 彼が纏う圧倒的な「強者の威圧感」に、澪は反射的に身を強張らせた。

 

「状況を報告しろ。……と言いたいところだが、惨状だな」

 

 神崎の視線が、霧となって消えかけている巨躯の跡と、深く抉れた大地をなぞる。

 そして最後に、全身に酷使したチャクラの反動を引きずり、今にも倒れそうな澪へと向けられた。

 

「……ドラゴンを、仕留めたのか」

「いえ、私は……。柏木君は、最初のブレスで……っ」

 

 言葉が喉に詰まる。

 

 神崎はそれ以上追及せず、短く「わかった」とだけ答えた。

 その視線が、澪を通り過ぎ、その後ろに立つ少年――刹へと固定される。

 

「……久遠、刹か」

 

 刹は何も答えず、ただ無機質な瞳で神崎を見返した。

 神崎の眉間に、深い皺が寄る。

その表情には、生徒を見る慈しみよりも、御しがたい怪物に対するような警戒の色が混じっていた。

 

「このドラゴンを屠ったのは、君か」

「……そうです」

 

 感情の削ぎ落とされた、短すぎる肯定。

 神崎はしばらくの間、無言で刹を射抜くように見つめていたが、やがて吐き捨てるように告げた。

 

「久遠。君は私と共に本部へ来い。……『これ』の説明を、詳しく聞かせてもらう」

「了解」

 

 刹は拒まず、淡々と歩き出す。

 神崎が他の教師たちに、事務的な指示を飛ばした。

 

「第三班の生徒は医療班へ引き渡せ。その後、事情聴取を行う。……柏木の遺品回収も急げ」

「了解しました」

 

 若い女性教諭が、澪たちの元へ駆け寄ってくる。

 だが、その腕に支えられながらも、澪の視線は離れていく背中を追い続けていた。

 

「待って……。久遠、くん」

 

 呼びかける声は、ひどく弱々しかった。

 刹は一度も振り返らない。

 神崎に先導され、暗い森の奥へと消えていく。

 彼の纏っていた、あの禍々しい赤い輝き。

 

 十年前の銀色の輝きとは正反対の、不吉な力の余韻が、今も澪の肌をチリチリと焼いている。

 

「九条さん」

 

 しずくが、心配そうに澪の肩を抱いた。

 

「行きましょう。貴方の体も、もう限界です」

「……ええ。わかっています」

 

 重い足取りで、医療班の車両へと向かう。

 背後で、木々がザワザワと波打っていた。

 隣を歩く吼が、押し殺したような声で問いかけてくる。

 

「九条……あいつのこと、知っているのか」

「……ええ。十年前に、一度だけ。私を、助けてくれたんです」

 

 澪はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、その拳が白くなるほど強く握りしめられているのを、吼は見逃さなかった。

 

 ガタガタと揺れる医療車両の窓から、沈みゆく夕日を眺める。

 三つのチャクラを無理やり解放した反動で、意識が遠のいていく。

 

 けれど、まぶたの裏には、冷たい瞳で「近づくな」と言い放ったあの少年の横顔が、焼き付いて離れなかった。

 

 ――久遠刹。

 

 再会の喜びは、彼が纏う「謎」という名の霧に飲み込まれ、澪の心に暗い不安の影を落としていた。

 ――答えのない問いが、昏い予感となって心に澱む。

 

 燃え上がるような残照が、樹海の縁をどす黒い赤に染め上げていた。

 




 その光景を、少し離れた断崖の上から見下ろす影があった。

 

 細い輪郭。風に遊ばれる長い髪。

 一見すれば、夕日に佇む麗しい乙女のシルエットだ。

 

 だが、彼女がそこに立って以来、周囲の虫の音はぴたりと止み、大気はひび割れた氷のような緊張感に支配されていた。

 

 彼女の視線の先には、先ほどまで「災厄」が顕現していた戦場がある。

 

 ドラゴンの断末魔。

 少年の振るった、あの悍ましくも美しい紅蓮の輝き。

 

「……ふふっ」

 

 ふいに、薄い唇から零れたのは、鈴の音のように澄んだ、けれど凍てつくような嘲笑だった。

 

「あれが、あの『醜悪(グロテスク)』様の……。

 期待外れもいいところね。あんなに脆くて、あんなに『人間』臭いなんて」

 

 彼女は退屈そうに指先で髪を弄ぶ。その仕草一つに、見る者を狂わせるような絶対的な「捕食者」の余裕が滲んでいた。

 

「まあ、いいわ。この淀んだ空気、肌を刺すような安っぽい界力……相変わらずこの『地球』という世界は、吐き気がするほど平和で美味しそう」

 

 彼女はゆっくりと、沈みゆく太陽へ向かって一歩を踏み出した。

 

 足元には道などない。にもかかわらず、彼女の体は宙に浮くことさえなく、夕闇のグラデーションに染み込むようにして――その輪郭を内側から崩していく。

 

「せいぜい足掻きなさい、九条澪。……貴女が絶望するほど、あの方は美しく育つのだから」

 

 笑い声だけが、夜の帳が下りた樹海に長く残響した。

 やがて、甲高い笑い声は完全な闇に包まれ、まるで幻のように消えた。


 夜が、訪れる。

 長い一日が、まだ終わらない。


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