第3話 狙われた街
六月でも朝は、まだ湿気を纏っていなかった。
九条澪は、自宅マンションの玄関を出て、緩やかな坂道を下り始めた。
国立黎明総合学園都市――通称「黎明」と呼ばれるこの場所は、霊峰富士山の裾野に広がる、青木ヶ原樹海の外縁部に人工的に造成された、特異な街だった。
舗装された歩道の脇には、若い街路樹が規則正しく並んでいる。計画的に配置された緑地帯には、芝生が朝露に濡れて、銀色の光を返していた。
空気は冷涼で、肺の奥まで透き通るような清涼さがある。
澪は、いつもの速度で歩いた。急ぐことも、遅れることもない。
黎明学園都市には、特有の静けさがあった。
都市としての機能は整っているが、商業的な喧騒は極端に少ない。スーパーマーケットも、書店も、コンビニエンスストアも、すべて「必要だから」存在している。
華美な看板も、派手な広告もない。整然としすぎていて、時折、どこか人工的な息苦しささえ覚える。
それでも、澪はこの街が嫌いではなかった。
歩道を進むと、やがて視界が開ける。
遠くに見えるのは、学園の校舎群だ。
幼稚園から大学までが同じ敷地内に存在し、それぞれが機能ごとに区画分けされている。
高校棟は中央部に位置し、白い外壁が朝日を反射して、淡く輝いていた。
この街には、異能者とその関係者が集められている。
異界接続――人類にとって未だ完全には制御できない、異世界との接触現象。
日本政府は、その接続地点を青木ヶ原樹海全域に限定することで、リスクを一極集中させた。
そして、異能者たちをここに集め、教育し、管理し、そして守っている。
結果として、この都市の人口の約四割が異能者だった。
残りは、その家族や、関係省庁の職員、あるいは研究者たちだ。
澪もまた、その四割に属している。
九条念法――彼女が相伝する術法は、古くから九条家に伝わるものだった。
異能というよりは、武術に近い。
澪自身、その力を当たり前のものとして受け入れてきた。
ただ、それが「特別」であることも、理解していた。
歩きながら、澪は手のひらを見る。
白く、細い指。爪は短く切りそろえられている。この手が、術式を発動する。意識を集中させ、術理を展開し、現象を固定する。
その感覚は、まるで呼吸のように自然だった。
やがて、前方に人影が見えた。
制服姿の女子生徒が、少し弾んだ仕草でこちらに手を振っている。
――朝比奈結衣だ。
澪は足を止めず、そのまま結衣のほうへ歩いていった。
「澪ちゃん、おはよー。相変わらずだね。髪、めっちゃ綺麗じゃない?」
結衣は軽い調子で笑いながら声をかけてくる。
馴れ馴れしすぎず、でもよそよそしくもない。彼女らしい距離感だった。
「おはよう、朝比奈さん。……そのシュシュ、可愛いですね。淡いピンク色で」
「でしょ? 昨日買ったんだ。澪ちゃんに褒められると、ちょっと得した気分」
澪は、軽く会釈を返した。
結衣は肩下で髪を緩く結び、少し茶色がかった黒髪が朝の光を受けて柔らかく揺れている。
制服の着こなしは規則通りだが、どこか「普通の女子高生」らしさが残っていた。それが、彼女の持ち味だった。
二人は並んで歩き始めた。
「そういえば、【異能部】は今日午後から学外実習だよね。」
「ええ。樹海の外縁部で、界力測定を兼ねた演習です」
「演習か。相変わらず大変そうだね」
結衣は、少しだけ苦笑を浮かべた。
彼女は【普通部】に通学している。
異能を持たない生徒たちが通う、一般教育課程だ。
中学までは同じクラスだったが、高校に上がってから、異能者の多くは専門課程に進む。
澪の修めている【念法】は、生体内エネルギー運用型生体循環系(通称チャクラ系)異能に分類され、四月から【異能部念導調律科】に通っている。
その為、二人の進路は分かれた。
「結衣さんは、今日は何の授業ですか」
「普通に数学と英語。あと、午後は選択の文学かな。澪ちゃんと比べたら、地味すぎて笑えるくらい」
「そんなことはありません」
澪は、静かに首を振った。
結衣は、異能を持たない。
けれど、それは劣っているということではない。澪は、そう思っていた。
少し沈黙が流れた。
やがて、結衣が口を開いた。
「ねえ、澪ちゃん。界力って、やっぱり疲れるもの?」
「……どうしてそう思うんですか」
「だって、澪ちゃん、たまにすごく疲れた顔してるから」
結衣の言葉に、澪は一瞬、息を止めた。
気づかれていたのか、と思った。
「界力は――」
澪は、言葉を選びながら話し始めた。
「世界から流入する、力の奔流のようなものです。世界圧と呼ばれたりもしますね。
異能者は、その世界圧を感知し、取り込み、変換することで、異能を発動させます」
「うん」
「でも、それは――身体に負荷をかけます。
界力を通す、ということは、自分の内側に世界の力を通すということです。
拒絶反応が起きることもあるし、精神や体力を消耗することもあります」
結衣は、黙って聞いていた。
「説明が難しいんですけど……たとえるなら、ずっと重いものを持ち続けているような感覚、でしょうか」
「ああ、なるほど」
結衣は、納得したように頷いた。
「でも、それって危なくない? 無理したら、壊れちゃったりしないの?」
「だから、きちんと使えるように勉強や修行をします。
そして定期的に検査を受けます。界力の流入量や、身体への影響を測定して、限界を超えないように管理されています」
「……管理、か」
結衣の声に、わずかな翳りがあった。
澪は、それを聞き逃さなかった。
「結衣さん」
「ん?」
「私は、大丈夫です」
澪は、真っ直ぐに結衣を見た。
「心配してくれてありがとう。でも、私はちゃんと自分の状態を把握しています。無理はしません」
結衣は、少しだけ目を細めた。
「……うん。澪ちゃんがそう言うなら、信じる」
そして、彼女は小さく笑った。
「でもさ、たまには休んでもいいんだよ。真面目すぎるのも、考えものだからね」
「……気をつけます」
澪は、静かに答えた。
二人は、再び黙って歩いた。
校舎が、もうすぐ目の前だった。朝の日差しが強くなり始め、影が短くなっていく。
結衣は、校門の前で立ち止まった。
「じゃあ、私は普通部のほうに行くね。澪ちゃん、実習頑張って」
「ええ。結衣さんも、良い一日を」
二人は、それぞれの道へと分かれていった。
澪は、異能部の校舎へと向かう階段を上り始めた。
世界圧――それは、確かに重い。
けれど、それを背負うことが、澪の、異能者の役割だった。
※
教室に入ると、既に何人かの生徒が席についていた。
異能部念導調律科一年A組。窓際には朝の光が差し込み、教室全体が白く明るい。
廊下からは、他のクラスの喧騒が微かに聞こえてくる。
澪は、自分の席――前から三列目、真ん中あたり――に鞄を置いた。
「澪ちゃん、おはよう」
隣の席の女子生徒、神林瑠奈が、明るく声をかけてきた。小柄で、よく笑う子だった。
「おはようございます」
「ねえねえ、今日の学外実習って、どのあたりまで行くんだっけ?」
「樹海の外縁部、第三観測地点までだと聞いています」
「うわ、結構遠いじゃん」
「ですね」
神林は、少し不安そうな顔をした。
「実習って、やっぱり緊張するよね。うまく界力使えるかな」
「大丈夫ですよ。教官もついていますし」
「そっか。澪ちゃんは余裕そうでいいなあ」
神林は、屈託なく笑った。
澪は、小さく微笑み返した。
やがて、予鈴が鳴った。
教室がざわつき始める。生徒たちが席につき、教科書を出し、授業の準備を始めた。
そのとき――
教室の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、一人の男子生徒だった。
少し長めの黒髪。死んだ魚のような、感情の読めない瞳。
背は高く、おそらく百八十センチ近くある。制服は着崩していないが、どこか纏う空気が違っていた。
——久遠刹。
澪は、その名を知っていた。
同じクラスの生徒だが、ほとんど話したことはない。
いつも一人で、誰とも関わろうとしない。表情も乏しく、声もほとんど聞いたことがなかった。
刹は、教室の中を一瞥することもなく、真っ直ぐに自分の席へ向かった。
一番後ろ、窓際。
誰もが避けるように、その周囲だけ空気が違っていた。
刹は、椅子を引き、静かに座った。
そして、窓の外へ視線を向ける。
それだけだった。
教室の空気が、一瞬だけ、凍りついたように感じられた。
神林が、小声で囁いてきた。
「……久遠君、今日も来たんだ」
「ええ」
「なんか、怖いよね。全然話さないし、いつも一人だし」
「……そうですね」
澪は、曖昧に答えた。
けれど、心のどこかで、違和感を覚えていた。
怖い――そう感じるのは、理解できる。
刹の纏う雰囲気は、確かに剣呑だった。
近寄りがたく、拒絶的で、どこか冷たい。
でも、それだけではない気がした。
澪は、刹の横顔を見た。
窓の外を見つめる、その瞳。
何も映していないような、空虚な目。
——でも、本当に何も映していないのだろうか。
澪は、不意に既視感を覚えた。
どこかで、この瞳を知っている。
誰かを、こうして見つめたことがある。
それが誰なのか、思い出せない。
けれど、確かに心のどこかに残っている。
刹は、微動だにしなかった。
ただ、窓の外を見ている。
まるで、そこに何かがあるかのように。
あるいは、何もないことを確認しているかのように。
神林が、また小声で話しかけてきた。
「ねえ、久遠君って、デザインド・チルドレンなんだって」
「……そうなんですか」
「うん。噂だけど。人工的に異能を組み込まれた子、っていうか」
デザインド・チルドレン。
澪も、その言葉は知っていた。
生まれながらに異能を持つのではなく、人為的に異能を付与された存在。あるいは、その為に作られた存在。
界力駆動型――世界圧を直接操作できる、特異な能力者。
倫理的な問題から、現在ではその研究も制限されている。
けれど、過去に生み出された子供たちは、今も存在している。
「だから、なんか……普通じゃないんだよね」
神林の声には、怯えに似た何かがあった。
澪は、何も答えなかった。
ただ、もう一度だけ、刹を見た。
彼の瞳に映るもの。
それが何なのか、澪には分からなかった。
けれど、その瞳が――どこか、哀しいものに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
やがて、本鈴が鳴った。
教師が入ってきて、授業が始まった。
刹は、最後まで窓の外を見ていた。
※
昼休みが終わり、午後の授業が始まる前。
教室には、緊張した空気が漂っていた。
担任の教師――四十代半ばの男性、名を三原という――が教壇に立ち、生徒たちを見渡した。
彼の表情は、いつになく厳しかった。
「これから、学外実習に向かう。全員、よく聞くように」
三原の声が、教室に響く。
生徒たちは、一斉に背筋を伸ばした。
「今回の実習は、樹海外縁部、第三観測地点までの行軍演習だ。
お前たちにとっては初めての、実地での異界接続領域での活動になる」
三原は、一拍置いた。
「いいか。これは、遊びではない」
その言葉に、教室の空気がさらに引き締まった。
「異界接続領域は、常に危険と隣り合わせだ。界力の流入は完全な予測は不可能で、突発的な世界圧の上昇が起きることもある。
最悪の場合、命に関わる事もある」
澪は、静かに息を吸った。
命に関わる――その言葉の重みを、彼女は理解していた。
「お前たちは、まだ一年生だ。異能の扱いにも慣れていない。
だからこそ、教官の指示には絶対に従うこと。勝手な行動は、自分だけでなく、他の生徒の命も危険にさらす」
三原の視線が、一人ひとりの生徒を捉えていく。
「もう一度言う。これは、訓練ではあるが、実戦だ。異界は、お前たちの都合など考慮しない。少しでも油断すれば、取り返しのつかないことになる」
教室は、静まり返っていた。
「準備のできた者から、昇降口に集合。バスは十五分後に出発する。遅れるな」
三原は、そう言って教壇を降りた。
生徒たちは、ざわめきながら立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
澪も、鞄を手に取った。
神林が、不安そうな顔でこちらを見ている。
「澪ちゃん、大丈夫かな……」
「大丈夫ですよ。ちゃんと指示に従えば」
「そうだよね。うん、頑張ろう」
神林は、自分に言い聞かせるように頷いた。
澪は、教室を出ようとして――ふと、後ろを振り返った。
刹は、まだ席に座っていた。
窓の外を見たまま、動こうとしない。
周りの生徒たちは、彼を気にする様子もなく、次々と教室を出ていく。
澪は、少しだけ迷った。
声をかけるべきだろうか。
でも、何と言えばいいのか分からなかった。
そのとき、廊下から神林の声が聞こえた。
「澪ちゃん、早く!」
「……はい」
澪は、刹から視線を外し、教室を出た。
廊下には、すでに多くの生徒が集まっていた。皆、実習用の装備を身につけ、緊張した面持ちで並んでいる。
澪も、その列に加わった。
階段を降り、昇降口へ向かう。
その途中で、澪はもう一度だけ、教室のある方向を振り返った。
刹は、来ないのだろうか。
そう思ったとき、隣にいた男子生徒が呟いた。
「久遠の奴は、実習免除らしいよ」
「……え?」
澪は、思わず聞き返した。
「久遠は学外実習、免除されてるんだって。デザインド・チルドレンだから、特別扱いなのかもね」
男子生徒は、特に興味もなさそうに言った。
免除。
澪は、その言葉を反芻した。
なぜ、刹は免除されているのだろう。
デザインド・チルドレンだから――それは、理由になるのだろうか。
それとも、何か別の事情があるのだろうか。
澪の胸に、小さな疑問が芽生えた。
けれど、それを確かめる術はなかった。
バスが到着し、生徒たちが次々と乗り込んでいく。
澪も、その流れに従った。
窓際の席に座り、外を見る。
校舎が、ゆっくりと遠ざかっていく。
その一番上の階、窓際の教室。
そこに、刹がいるはずだった。
まだ、窓の外を見ているのだろうか。
それとも、もう誰もいない教室で、ただ一人、座っているのだろうか。
澪は、静かに目を閉じた。
バスが動き出し、学園を離れていく。
世界圧の流れる場所へ。
命の危険がある場所へ。
それでも、澪たちは向かわなければならない。
それが、異能者としての役割だから。
窓の外には、青木ヶ原の森が広がっていた。
深く、暗く、静かな森。
その奥に、異界が待っている。
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