脛に傷
はくすや
残業
今日も無事に終えた。入浴介助スタッフは揃って安堵する。
通所サービス利用者は比較的自立している人が多く、一般浴だ。しかし動ける人ほど危ない。風呂場で滑って転び骨折することがある。浴槽で溺れるなどということもありうる。要介護度が軽い人ほど常に目を光らせていなければならないものだ。
浴室と脱衣場合わせて常時6名ものスタッフが毎日毎日湯と汗まみれになっていた。
脱衣場で風呂上がりの利用者のスキンケアを行っていた看護師はすぐに相談員から声をかけられた。ケアハウスの入所者をひとり診て欲しいという。
南館の三階には自立型の軽費老人ホームがあった。そこは介護の手がかからない自立した高齢者が入っているが体調不良などがあるとこちら――北館の特別養護老人ホームのスタッフに声がかかる。
「わかりました、向かいます」
看護師は答えた。相談員に促されて男性介護士がひとりついた。ケアハウスのその利用者が男性であったためだ。
看護師といえど女性ひとりで男性の個室を訪れたりしない。相談員の話ではその利用者は68歳。ひとりでタクシーに乗って出かけるくらい自立していた。
「あちこち痒いと言ってます」
南館に移動する間に情報がもたらされる。
寝間着のズボンに血がついていたりして、引っ掻き傷でもあるのかも――と相談員は言った。
「何しろ脛に傷がある人らしいですから」
それを聞いた男性介護士が大笑いした。
部屋を訪れる。中にいたのはかなり大柄な男だった。
顔は老けている。七十代後半にも見える。猫背で眼鏡をかけている。
しかし腕っぷしは強そうだと看護師は思った。若いころヤンチャした武勇伝をよく語るというから男性介護士を連れて訪室するのは妥当な判断だっただろう。
看護師は挨拶してから彼の話を聞いた。
何日か前から足が痒かった。掻きすぎて血が出るようになったらしい。
ベッドに座らせてズボンの裾をまくり上げる。男性介護士と一緒になって患部を観察する。
「
彼は自虐的に笑う。男性介護士もつられて笑った。
確かに脛に引っ掻き傷。そして湿疹。
「あら?」
よく見ると脛毛に付着している白い粉状のゴミはどれもこれも生え際から1センチあたりのところに規則正しく付いていた。
看護師は手袋をはめた指でそれをつまみ、毛先に向かって引っ張った。わずかに抵抗があったが滑るようにそれは毛先へと移動し、脛毛から外れた。
「これは――先生に診てもらう案件ね」
「そうなんですか?」男性介護士ものぞき込む。
「シラミの卵だと思う」
「シラミ?」
看護師はこれに似たものを見たことがあった。幼稚園児だった姪が頭にシラミが湧いてその対応を手伝ったことがあったのだ。男児だったら丸坊主にすることもあるが女児なので毎日駆虫薬が入ったシャンプーで髪を洗い、目についた卵をそれこそ
診療所の老医師が臨時往診したのは夕食間近の時間帯だった。
「腹減ったなあ」
ケアハウスの彼は呑気に言う。
坊主頭の老医師は眼鏡をかけていたが、ルーベ越しに患部を観察すると言った。
「ケジラミだな。このケアハウスに似た症状のひとはいないのだろう。どこでもらった?」老医師はニヤニヤしながら訊いた。
「脛に傷があるもんで」彼は頭を掻いた。
「毎日外出してるよね?」同室していた相談員が彼に訊く。
彼は繁華街に出かけて風呂に入っていると答えた。
「ここは好きな時に好きなだけ風呂に入れないだろ」だからわざわざ入りに行くらしい。
「ケジラミは頭の髪の毛につくアタマジラミと違って性行為感染症だ。元気があって良いなあ」
老医師の方がこの男より年は食っていた。
「そんなことしてねえし」
そのまま浴室に移動し、看護師は男性介護士とともに彼の体を洗った。もちろん
老医師は陰毛にも卵があるかもと言ったが、そこに卵は見られなかった。
「まあ――行為しなくてもタオルとか寝具を通じて感染することもあるからな」老医師は言った。
ドラッグストアで相談員が駆虫用のシャンプーを買ってきたり、衣類の高温洗浄・洗濯をしたり、時間外の入浴介助及びスキンケアをしたりして2時間以上の残業となった。
老医師が所属する診療所には臨時の訪問診療代が入るのかも知れないが、看護師、介護士、相談員に残業代が出るのか?
出ても数百円にもならないな。これも老人施設あるあるだ――と看護師は溜息をついた。
脛に傷を持つケアハウスの彼は今日も自由に生きている。
脛に傷 はくすや @hakusuya
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