第7話 口説かれる

 グラスに注ぎ足された真紅のワインを一輝は「すみません」と受け取った。その実そんなに酒に強いわけではないが、勧められたら断るほどでもなかった。一輝がグラスを傾けるのを眺めてから、守屋は続ける。



「ところでさ、あの写真を見てから、おれも一輝君のこと撮ってみたいと思ってたんだよね」


「守屋さんがですか?」


 佳祐がなにか気付いたような顔で守屋を見た。


「あの写真を突き破ってきそうな視線に当てられたんだ。やっぱり色々なモデルさんを撮ってるけど、こっちに食い込んで来るようなモデルさんて、あんまりいないからね。一輝君にすごく興味があるんだ」


「それは佳祐が撮影したからじゃないですか」

と、一輝は引っ込もうとする。それを遮るように、守屋は少しだけ熱の増した口調で続ける。


「確かにそうかもしれない。けれど、やっぱりいいモデルさんがいたら、おれも撮りたいと思っちゃうよ」


「そうですかね」

そうなのか、と思いながら一輝は答える。どうも話が妙な方向に行っている気がする。


「 モデルやらない?」

と、守屋は一輝に誘いかけた。


「モデルですか」


「そう 今 写真集を撮っててさ」

 さっき佳祐が言っていた作品集だろうか、と思う。


「『ヤマメ』っていうタイトルにしようと思ってるんだけど」


「ヤマメって川魚のですか?」


「そうあの山女魚。あの魚の顔を見たことがある?小さくって上品で、なにかこっちに訴えかけてくる感じがあるよね。あんなのを串刺しにして焼いて食べるなんて、可哀想だけれどさ……表情があるんだよ。あの魚は」


 言われてみればそうかも知れない。一輝は小さい頃、父親と清流釣りに出かけて、ヤマメを釣った。後で山女魚と書くと知り、なんとなく特別な魚なのだな、と感じたことを思い出す。


 

「魚の枠を超えてくる感じ?だから、そういう……写真を飛び出してくるみたいな、訴求力があるモデルさん達を撮りたくってっさ。あと今、山梨に事務所があるから、その山のなかのロケーションを活かして撮影しているんだよね……山の女、だからヤマメなの」


「なるほど……」

 先程展覧会で見た女性の写真を思い出した。あの写真もきっとその一部だったのだろう。



「一輝君は男の子だけど、まぁヤマメにもオスはいるからね」と笑い、一輝の顔を品定めするような目つきで眺めて「何より綺麗だし、一人くらい、男の子の写真があってもいいかなって思って……」と冗談ぽく誘ってくる。


「それは、ちょっと……」

 本気なのかどうか測りかねている一輝の横で、佳祐が警戒したような声で言った。


「ちょっとこいつは本当に一般人なんで、向いてないですよ」


「 そこを引き出すのがプロの力量ってもんじゃないのかな」

 あっさりと佳祐の反論は切り捨てられた。守屋は熱っぽく続ける。


「……控えめで綺麗な中に、一輝君にはなんというか、強さっていうか、そういう魅力が滲んでいるから。そういうのが出せるといい写真が撮れると思うよ。……あの佳祐が撮ったみたいな 」


一輝と佳祐は目を見合わせた。


守屋は佳祐にも矛先を向けた。

「……佳祐。お前、今スランプじゃないか。もう一度、一輝君のこと撮らせてもらったら、あの頃みたいに、何かすごいインスピレーションが湧いてくるんじゃないか」



「それは……」

 佳祐が息を呑む気配が伝わってくる。

「そうかも知れないですけど……」

 守屋の言葉に納得したようだった。

 佳祐は一輝の様子を伺ってくる。彼は一輝が決してそのようなものが得意でないことを知っている。一輝に対する遠慮があるのかも知れない。


「……いいよ。佳祐が撮りたいなら別に」

一輝は答えた。佳祐に何かしてあげたいと思った。  

 守屋が言う通り、もし自分がその写真を撮られることで、佳祐に何か良い影響があるのであれば 、恥を押してでも協力したかった。


「一輝……」


「じゃあ 決まりだね」

守屋が言った。一輝はあくまで佳祐に言ったのだったが、守屋にそう断言されて焦る。


「待ってください、おれは佳祐のモデルはしますけれど、ちょっと写真集は……」


「場所の設定とかは、うちのスタジオがするから。佳祐もおれが立ち会ったほうが良いだろうし……」

確かにそれはそうなのかもしれないと思った。


「おれにも撮らせてほしい。あの写真と、今日の感じを見て、すでに一輝君のイメージができちゃってるから」

ね、と守屋は目を細めた。笑う眼差しの奥に、狙ったものを逃さまいとする意志を感じる。自分の芸術性に対する確信なのかもしれなかった。


「守屋さん、こいつはやっぱ素人なんで……ちょっと守屋さんの求めるようなレベルは高いっていうか」


 佳祐もなんとか止めようとしたがったが、一輝自身がモデルをやると言ってしまった手前、その理屈だけでは守屋が肯んじないのは明らかだった。


「大丈夫。おれがうまく撮ってあげる。それに、一輝君自身が佳祐のためならモデルをやるっていうなら、おれが撮っても構わないでしょう?それとも、佳祐は良くておれに撮られるのは嫌なの?」


 そういう言い方をされてしまうと困る。断ったらプロに対して、失礼に当たる気がする。守屋は佳祐以上に強引なところがあるようだ。ただ、その熱意は先程写真に感じたような、なにか妖しい引力のように人を引き付ける。それくらい本気で何かを撮りたいという気持ちが強いのだろう。


「もちろん謝礼も出すし」

一輝は、守屋が熱心に語る唇の動きをただ眺めた。


「何よりおれの写真と比べたほうが、佳祐も勉強になるだろう?」

「それは……」

佳祐が言葉に詰まった。


「同じ被写体でも、どう捉えるかによってその撮影者の視点が出てくるんだから、一旦、これを機に自分の表現に向き合えるんじゃないか」

 

 佳祐も黙り込んだ。唇を噛むように一瞬、難しい顔をしたが、ふっと力を抜く。困ったように一輝を見た。

 きっと佳祐も高校の頃だったら、強引に一輝にモデルをさせたと思う。大人なった今は分別からか、そういうわけにもいかないらしい。根は素直な男だから、一輝の気持ちも考えて、葛藤しているのだろう。

 一輝は佳祐の弱った様な顔見ていつもの佳祐らしくないと思う。平気なふりをしていても、やはりスランプはしんどいのだろう。困り果てたその様子に、手を差し伸べてやろうと思った。一輝が折れれば丸まる話だ。


 やれやれというように軽く首を振る。そして、一輝は「わかりました」と答えた。


「じゃあ交渉成立ということでいいよね?」


 守屋が手を出してきた。一輝も仕方なく手を差し出す。案外冷たい守屋の手が絡みつく。消して強い力ではないが、なにか引力のようなものに引き寄せられるように、離す事はできなかった。


 佳祐の顔を見ると、心配そうにこちらを見返してきた。もしかしたら、一輝を巻き込んでしまったと気がとがめているのかもしれない。むしろその姿に奮い立たされた。守屋に撮られるのは少し怖いが、佳祐のためになるなら嬉しい。


 一輝は「お手柔らかにお願いします」と微笑んだ。

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