第9話 バグが生んだ怪物(最終話)
イージス・セキュリティ・ソリューションズ本社ビル。
最上階へと続く専用エレベーターの中で、俺は濡れた体を震わせていた。
鏡に映る自分を見る。
泥と煤で汚れ、高級な絨毯に汚水を滴らせている、みすぼらしい中年男。
だが、その目は以前のように泳いではいなかった。
チン、と軽やかな電子音が鳴る。
扉が開くと、そこは広大な社長室だった。
一面のガラス張り。眼下には、雨に煙る東京の夜景が広がっている。
その窓際に、一人の男が立っていた。
オメガ。この狂った組織の支配者だ。
「……待たせたな、オメガ」
俺が声をかけると、オメガはゆっくりと振り返った。
その顔には、余裕の笑みはなく、隠しきれない動揺と、底知れぬ疑問が張り付いていた。
無理もない。俺は彼の自慢の戦力をすべて葬ってここまで来たのだから。
「……J。まさか、お前がここまで辿り着くとはな」
オメガが低い声で唸る。
「Uのドローンを落とし、Vの毒を無効化し、Xを爆殺し……あろうことか、最高傑作であるZまでも破壊した。お前のような『不発弾(ダッド)』に、なぜそんな真似ができた?」
俺は泥だらけの足で、深紅のカーペットを踏みしめた。
「俺にも分からなかったよ。ついさっきまではな」
俺は自分のこめかみを指でトントンと叩いた。
「アンタらが俺に埋め込んだこのチップ。本来は、本部からの命令を受信し、俺の生体データを送り返すための通信機だ。そうだな?」
「……それがどうした」
「設定ミスが。単純な手違いだよ」
俺はニヤリと笑った。
「こいつは、本来送るはずの信号を遮断し、逆に『ネットワーク上の全データ』を受信する設定になっていた。……今にして思えば、全ての始まりはA(アルファ)が死んだ時だった」
あの日の頭痛は忘れられない。
Aが撃たれた瞬間、俺の頭の中に、彼の断末魔と、悔恨と、そして『風を読む感覚』が流れ込んできた。
「ミサイラーが死ぬたびに、奴らの戦闘データは本部のサーバーへ送信される。ZのようなAIを作るためにな。だが、デジタル信号しか処理できないサーバーとは違い、俺の『脳』は生身だ。俺は受信しちまったんだよ。データとして数値化できない、奴らの『魂』そのものを」
オメガが目を見開いた。
「馬鹿な……。では、お前の脳内には……」
「ああ、いるぜ。AからTまで、全員な」
そう。
俺の中にいるのはTまでだ。
なぜか、最強と呼ばれたY(ヤンキー)だけは、死んだと噂をされたがいつまで経ってもここに来なかった。
「……化け物め。バグ如きが、創造主に牙を剥くか」
オメガが表情を歪め、デスクの上のボタンを乱暴に叩いた。
社長室の奥の隠し扉が開き、巨大な影が現れた。
身長二メートルを超える巨躯。全身を覆う重装甲のプロテクター。
その手には、巨大なガトリングガンが握られている。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。
虚ろな瞳。呼吸のリズムに合わせて機械的に上下する胸。
生きているが、死んでいる。
「Y(ヤンキー)……!」
俺は全てを悟った。
なぜ奴の声が俺に届かなかったのか。
こいつは死んでいなかった。
脳死状態のまま生かされ、肉体だけをサイボーグとして利用されていたのだ。
「Y……! アンタ、仲間をなんだと思ってるんだ!」
「資源だよ。優秀な資源はリサイクルする。常識だろう?」
「黙れ!」
「やれ、Y! このバグを肉片に変えろ!」
オメガが叫ぶ。
Yのガトリングガンが唸りを上げ、銃身が回転を始める。
普通の人間なら、反応する間もなく蜂の巣だ。
だが、俺は動かなかった。
Zは魂のない人形だった。だから破壊できた。
だが、目の前にいるのは、俺たちの兄貴分だったYの成れの果てだ。
――J。楽にしてやれ。Aの声が響く。
――あいつを、眠らせてやってくれ。Tが泣いている気がした。
「……ああ。分かってる」
ガガガガガッ!
マズルフラッシュが部屋を焼き尽くす。
だが、その射線上に俺はいなかった。
俺は踏み込んでいた。
涙を流しながら、それでも足は正確に動く。
T(タンゴ)のステップで弾丸の嵐をすり抜け、S(シエラ)の加速で懐に潜り込む。
Yの動きがスローモーションに見える。
A(アルファ)の動体視力が、Yの義眼の動きから次弾の発射角を完全に予測していた。
「……遅くなってごめんな、Y」
俺はYの懐で、静かに呟いた。
俺の手刀が、Yの首の装甲の継ぎ目――生命維持装置と脳を繋ぐバイパス――を一閃した。
ズンッ。
重い音がした。
Yの巨体が揺らぎ、ガトリングガンが手から滑り落ちた。
その瞬間。
キィィィィン……!
俺の頭の中で、これまでで一番大きく、そして温かいノイズが鳴り響いた。
まるで、長い旅を終えた友人が、ようやく家に帰ってきたような感覚。
『……世話をかけるな、J』
太く、懐かしい声が、脳内に響いた。
Yだ。
肉体の枷から解き放たれた最強の魂が、今、俺の中に合流した。
ドサァァァン!!
床が抜けるほどの轟音と共に、かつての英雄の抜け殻は崩れ落ちた。
「な……!?」
オメガが腰を抜かし、後ずさる。
自分の最強の駒が、指一本触れられずに沈んだことが信じられない様子だ。
「ひ、ひぃぃ……来るな! 金か? 地位か? なんでもやる!」
オメガがデスクの裏に這いつくばり、震える手で引き出しから拳銃を取り出す。
俺はゆっくりと歩み寄った。
銃口が俺に向けられる。
パンッ! 乾いた音が響く。
俺は避けることすらしなかった。
わずかに首を傾けただけで、弾丸は俺の頬をかすめ、後ろの窓ガラスを割った。
「な、なぜ当たらない……!」
「当たるわけねぇだろ。アンタの殺気、分かりやすすぎるんだよ」
俺はオメガの目の前に立ち、その胸倉を掴み上げた。
軽い。
こんな軽い男に、俺たちは怯えていたのか。
「お、俺を殺せば、組織が黙っていないぞ! 世界中がお前の敵になる!」 「上等だよ」
俺は泥だらけの拳を振り上げた。
ナイフも、銃もいらない。
これは、俺(バグ)からの手向けだ。
「俺の脳内には、アンタらが消そうとした二十一人の証人がいる。Zのような空っぽの人形じゃない。熱い魂を持った本物のミサイラーたちがな」
俺はこめかみを指差した。
「世界中が敵? 違うな。これからは、俺が『世界の敵』を裁く番だ!」
ドゴォッ!!
渾身の右ストレート。
オメガの顔面が歪み、体がくの字に折れて吹き飛んだ。
窓ガラスを突き破り、オメガの体は夜の闇へと吸い込まれていく。
断末魔の叫びは、雨音にかき消された。
ガシャン、とガラスの破片が落ちる音だけが残った。
「……ふぅ」
俺は息を吐き、デスクに残されていた高級ウィスキーのボトルを掴んだ。
栓を抜き、ラッパ飲みする。
熱い液体が喉を焼き、全身の痛みを和らげていく。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
俺がばら撒いた「種(証拠)」が芽吹き始めたようだ。
組織は崩壊する。俺という「バグ」のせいで。
キーン……。
脳内のノイズが、ふっと消えた。
いや、消えたんじゃない。彼らは俺の中に溶け込んだのだ。
AからYまで、全員が俺の中で静かに笑っている。
「……さて、行くか」
俺は空になったボトルを放り投げ、エレベーターへと背を向けた。
俺は相変わらず指名手配犯で、職なし、家なしの「不発弾」だ。
だが、もう震えはない。
俺は濡れた髪をかき上げ、口角を上げた。
最強の家族たちと共に、俺は夜の街へと消えていく。
臆病な夜は、もう明けた。
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