六畳半のタイドプール

二瓶佳子

第1話

 僕の世界は、いつのまにか42インチの中にしかなくなっていた、そのゲームの海の中で僕は、自由に泳ぎ回り、敵と戦い、仲間を増やして、冒険していたんだ。


「ウミウシ、本物の海に入ってみない?」


 そんなメッセージが、仲間のシャコシャコから来た。シャコシャコはもう何年も同じゲームの中で、僕の相棒だ。いつも僕がピンチの時に駆け付けて、アシストし、助けてくれる。信頼のおける仲間。チャットで日常会話もしている。僕の唯一の友達。


 そのメッセージに、僕の手は止まった。僕はもう、数年は家から出ていない。いや、出られないのだ。ある時、仕事から帰ってきて、倒れこむように眠り、そのまま、外に出られなくなってしまった。


 よくあることだと思うんだ、本当はそんなに気することじゃないのかもしない。些細なミスを上司に叱責されて、そのまま僕の心は、海の底に沈んでしまったように、海面に浮きあがることができなくなってしまったんだ。いつも海面を見上げては、太陽の光がきらめいて揺らめいているのを眩し気に見ている。冷たい海の底で、凍えそうになりながら。


 シャコシャコは、ダイビングのインストラクターをしているらしい。海の中を冒険するゲームをやっていて、現実でもダイビングをやっているなんて、僕からしたら物語の主人公だ。僕とは違う。僕の世界は、この冷えた六畳半の子供部屋だけだから。


「俺がアシストするよ。ゲームの中と同じように」


 シャコシャコに対する信頼は厚い。いつも僕のことを身を挺して守ってくれるんだ。でも本当に? 六畳半の冷えたタイドプールの中で、外敵におびえる僕に、手を差し伸べてくれるの? もう僕は、人との話し方を忘れたウミウシだというのに。外は真夏で、猛暑だという。窓から見える外の強い日差しは、冷えた僕の体を温めてくれるだろうか。


「うまいよ! 初めてとは思えない。さすがはウミウシ。耳抜きも完璧だね」


 海水はこんなにもしょっぱくて、生臭い。日差しは僕を刺すように焼いてくる。現実のシャコシャコは、よく日に焼けた明るい青年で、ゲームの中と変わらずに僕の事を導いてくれた。初めてウェットスーツを着て、空気ボンベを背負って、海に入った。湿気を孕んだ熱い空気の世界から、じんわり体を冷やす海水の世界へ入る瞬間は、世界の隔たりを跨ぐ刺激で心が震えた。あの六畳半のタイドプールとは違う、海流があり魚もいる鮮やかな世界がそこにあった。いつもそこにあった地面はない。僕は全身を海水に包まれて、引力からも解放されている。ああ、僕の手は、足は、ずっとここにあったんだ。


 半袖のウェットスーツの形に、僕の手足は黒く色づいた。

(了)

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