終末のミツ
久藤 準時
第1話 洗脳
医大に落ちた。
不合格通知を見た瞬間、何も感じなかった。妙な喪失感だけが体を支配していた。
代々医者の家系に生まれ、祖父も父も優秀な外科医だった。なのに俺は予備校には通っているものの、授業中も上の空で、家に帰れば参考書を開くこともなく、ただ無為に時間を消費していた。
実家の自分の部屋で天井を見上げる。白いクロスの天井。そこに人生の答えなどあるはずもないのに、俺は毎日それを眺めていた。
五月の夕食時、母が唐突に切り出した。
「叔母さんの知り合いの娘さんを、暫くうちで預かることになったの。勉強の邪魔になら様にするから、心配しないで」
あまりに突然のことだったから気にも留めなかったけど、翌週その女の子がやってきた。
「はじめまして。甘原美津です」
リビングに立っていたのは、この世のものとは思えないほど美しい少女だった。長い黒髪が夕日を浴びて艶めき、透き通るような白い肌は陶器のように滑らかで、大きな瞳は深い湖のように底が見えない。十五歳とは思えないほど、どこか人形めいた美しさがあった。
最初の一週間、俺は彼女を意図的に無視していた。挨拶もそこそこに、自室に引きこもる日々。少女は何も文句を言わず、毎日学校に通い、静かに家事を手伝う。、自
しかしある夜、リビングで彼女がクラシック音楽を聴いていた。ショパンのノクターン第二番。
「いい曲だな」
俺は思わず声をかけていた。
「お兄さんも音楽、好きなんですか?」
美津は嬉しそうに顔を上げた。その瞬間、彼女の瞳に映った俺の姿が、まるで別人のように見えた。
それから、俺たちの距離は少しずつ縮まっていった。美津は驚くほど博識で、医学の話にも興味を示した。俺が挫折した医大受験の話をしても、彼女は否定せず、ただ静かに耳を傾けてくれた。
「お兄さんは、本当は医者になりたいんですか?」
ある日、彼女が尋ねた。窓から差し込む午後の光が、彼女の横顔を照らしていた。
「分からない。もう、何がしたいのか分からなくなった」
「でも、諦めたくはないんですよね」
その言葉は、的確に俺の心を射抜いた。
六月に入り、梅雨が始まった。その日は雨音しか聞こえないほどだった。
そしてその夜、俺たちは一線を越えた。
それは衝動的で、混乱していて、でも確かに俺が望んだことだった。俺の部屋で二人きり、参考書の話をしていた時だった。俺は彼女の白い首筋に手を伸ばすと、二人の視線が絡み合った。
少女は何も拒まなかった。むしろ、彼女の方から俺を求めてきた。柔らかな唇。甘い吐息。絡み合う指。
「わたし、すごくどきどきしてる」
俺の腕の中で囁いた。彼女の髪からは、雨に濡れた花のような香りがした。
罪悪感があった。これは正しいことではない。でも、美津の存在は俺の空虚な日々に初めて意味を、色を、温もりを与えてくれた。彼女の肌の温度、呼吸の音、心臓の鼓動。それら全てが、俺を現実に繋ぎ止めていた。
それから毎晩、俺たちは互いを求め合った。言葉は少なく、ただ肌を重ねることで何かを確認し合うように。体温は不思議なほど心地よく、彼女に触れていると、全ての不安が溶けていくようだった。
俺は次第に、美津なしではいられなくなっていた。
予備校の授業中も、彼女のことばかり考えていた。柔らかな髪の感触。白い肌。甘い吐息。夜の記憶が昼間に侵入してくる。講師の声は遠くなり、教科書の文字は意味を失った。
帰り道、俺は足早に家へ向かった。美津に会いたい。触れたい。その欲求が、全てを支配していた。
玄関を開けると、彼女がいつも出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
その声を聞くだけで、体の芯が熱くなる。美津は俺の変化に気づいているようだった。微笑みながら、そっと俺の手を取る。
「今日も疲れたでしょう」
意味も無く俺の手を優しくにぎる。それだけで、全身が震えた。
夕食後、二人は自然と俺の部屋へ向かった。もはや儀式のように。彼女の香りに包まれ、柔らかな肌に触れることが、俺の唯一の救いになっていた。
「わたしがいないと寂しい?」
「お前なしじゃ何もできそうにない」
正直に答えた。美津は満足そうに微笑んだ。
日に日に、依存は深まっていった。彼女が買い物に出かける数時間すら、俺は耐えられなくなった。たった数分の帰りでも、時計の針が遅く感じられる。
そして帰ってくると、獣のように彼女を抱きしめた。
「よしよし、寂しかったんだね」
美津は優しく俺の髪を撫でる。その手の温もりが、俺を正気に戻した。いや、もう俺に正気などなかった。彼女の存在こそが俺の正気だった。
医大受験のことなど、どうでもよくなっていた。親のことも、将来のことも。ただ美津がいればいい。美津と一緒にいられれば、それでいい。
そう思うようになっていた。
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