サイドストーリー 硝子の靴は砕け散り、泥濘の中で

「和也の優しさってさ、正直、重いんだよね」


あの日、放課後の教室で彼にそう告げたとき、私の胸を満たしていたのは罪悪感などではなかった。それは、長年背負わされていた重いリュックサックをようやく地面に下ろしたような、圧倒的な「解放感」だった。


和也は呆然としていた。信じられないものを見るような目で私を見ていた。その表情すら、当時の私には滑稽で、そして少しだけ鬱陶しく映った。


だってそうでしょう?

私が風邪を引けばすぐに飛んできて、お粥を作ってくれる。

母親がヒステリーを起こせば、深夜でも公園に来て話を聞いてくれる。

記念日には必ず手紙とプレゼントをくれる。


完璧な彼氏。誰が見てもそう言う。

でも、その完璧さが私を窒息させていた。

彼の前では、私は常に「守られるべき可哀想なミオちゃん」でいなければならなかった。彼の聖母のような優しさに包まれていると、自分が何もできない赤ん坊になったような気がして、無性に苛立った。


刺激が欲しかった。

私が求めていたのは、温かい毛布じゃなくて、心臓が焼き切れるような火遊びだった。


だから、工藤リョウを選んだ。

彼は和也とは正反対だ。乱暴で、口が悪くて、私のことなんて全然大切にしてくれない。でも、その「雑な扱い」が心地よかった。彼のバイクの後ろに乗って夜風を切るときだけ、私は家のことも、将来の不安も、全部忘れて「女」になれた気がした。


和也を捨てたその日の夜、私はリョウくんの腕の中にいた。

タバコの混じった安っぽい香水の匂い。耳元で囁かれる甘い言葉。

「お前、あんな真面目くんとよく付き合ってたな。俺なら耐えらんねーわ」

「もうやめてよ。あんなの、ただの同情だもん」


二人で和也のことを笑った。

そうすることで、私は自分の選択が正しかったのだと確認したかったのかもしれない。

「私は新しい世界を手に入れたんだ」と。


けれど、その「新しい世界」の輝きは、驚くほど短命だった。


変化はすぐに訪れた。

付き合って二週間も経つと、リョウくんの態度は目に見えて冷淡になった。

LINEの返信は遅くなり、デートの約束もドタキャンされることが増えた。

「ごめん、バイト」

「ダチと遊んでるから無理」


最初は我慢していた。和也みたいにいつでも暇なわけじゃないんだ、彼は人気者だから仕方ないんだ、と自分に言い聞かせていた。

でも、私の日常――地獄のような家庭環境――は、待ってくれなかった。


ある雨の降る夜。

玄関を開けると、ガラスの割れる音と怒号が聞こえてきた。

「出て行け! この役立たず!」

父の声だ。そして母の悲鳴。

また始まった。いつもの発作だ。


私は反射的に靴を掴んで外へ飛び出した。

雨が冷たい。パジャマ同然の格好で震えながら、私はスマホを取り出した。

指が勝手に「か」の文字を探そうとする。


(……違う。和也はもういないんだった)


そうだ。私は彼を捨てたのだ。「重い」と言って。

一瞬、激しい後悔が胸をよぎったが、すぐに首を振って打ち消した。

私にはリョウくんがいる。

彼は強い。和也みたいにオドオドせず、きっと「うっせーババアだな」と笑い飛ばして、私をどこか楽しい場所へ連れ出してくれるはずだ。


震える指でリョウくんに電話をかける。

コール音が長く続く。

お願い、出て。

心の中で祈り続ける。


『……あー? なんだよ』


ようやく繋がった電話の向こうからは、不機嫌そうな声と、大音量のゲーム音が聞こえてきた。


「あ、リョウくん……ごめんね、夜遅くに。あのね、家にいられなくて……今、外なんだけど」

『はあ? 知らねーよ。今いいとこなんだわ』


冷たい。

想像していた反応と違う。和也なら、第一声で「どこにいるんだ? すぐ行く」と言ってくれたのに。


「で、でも……寒くて、怖くて……」

『お前さぁ、俺と付き合ったのって、そういうの期待して? マジで重いんだけど』


「重い」。

その言葉が、鋭い刃物となって私の喉元に突きつけられた。

私が和也を傷つけた言葉。それがそのまま、倍の鋭さを持って返ってきた。


「だって……彼氏でしょ……?」

『彼氏だけど保護者じゃねーよ。お前の家の事情とか、俺に背負わせんな。そういう湿っぽい話、冷めるんだわ』


プツッ。ツー、ツー、ツー。


通話が切れた。

私は雨の中で呆然と立ち尽くした。

冷める? 背負わせるな?

あんなに「可愛い」って言ってくれたのに。「お前を守ってやる」みたいな顔をしてたのに。

全部、嘘だったの?

身体だけの関係だったの?


いいや、認めたくない。

きっと機嫌が悪かっただけだ。明日になれば、また優しいリョウくんに戻っているはずだ。


そう信じて、私はその夜、近所のコインランドリーで朝まで震えて過ごした。

洗濯機の回る音だけが、孤独な夜の話し相手だった。


翌日からの日々は、坂を転がり落ちるようだった。

学校でリョウくんに話しかけても、あからさまに無視されるようになった。

彼の取り巻きの女子たちからは「あの子、メンヘラらしいよ」「勘違いしてて痛いよね」と陰口を叩かれるようになった。


私の居場所は、学校にも、家にも、どこにもなくなってしまった。


そして決定的な瞬間が訪れた。

放課後の駐輪場。リョウくんが他の女の子と二人乗りしようとしているところに出くわしたのだ。

派手なメイクをした、私なんかよりずっと「軽そう」な女の子。


「リョウくん……?」

私が声をかけると、彼は心底うんざりした顔でこちらを見た。


「あー、まだいたの? お前」

「その子……誰?」

「新しい女。お前と違って話が通じるし、暗くないから楽しいんだわ」


新しい女。

私の存在は、もう過去のものとして処理されていた。


「待ってよ! 私、リョウくんのために和也と別れたんだよ!? なのに、こんなの酷いよ!」

私は必死で縋り付いた。プライドも何もかもかなぐり捨てて。


リョウくんは冷ややかな目で私を見下ろし、吐き捨てるように言った。

「知らねーよ。勝手に別れて、勝手に乗り換えたのはお前だろ? 和也って奴も災難だな。こんな寄生虫みたいな女に好かれてさ」


寄生虫。

その言葉に、私は殴られたような衝撃を受けた。

彼は私の腕を乱暴に振り払い、エンジンの爆音と共に去っていった。

女の子の甲高い笑い声が、排気ガスと共に残された。


私はその場にへたり込んだ。

涙も出なかった。

ただ、空っぽだった。

刺激が欲しかった。退屈な日常から抜け出したかった。

でも、手に入ったのは「都合のいい女」というレッテルと、惨めな孤独だけだった。


その時、ふと猛烈な飢餓感に襲われた。

お腹が空いたわけじゃない。心が、温かさを求めて叫んでいた。


和也。

和也に会いたい。

彼なら、今の私を見ても笑ったりしない。

「大丈夫か?」って、あの優しい声で聞いてくれる。

タオルを貸してくれる。温かいココアを買ってくれる。

私の話を、嫌な顔一つせずに朝まで聞いてくれる。


そうだ、和也だ。

彼だけが、私の本当の居場所だったんだ。

なんであんな簡単なことに気づかなかったんだろう。

刺激なんていらなかった。私が欲しかったのは、絶対的な安心感だったのに。


私は走り出した。

雨が降り始めていたが、構わなかった。

彼に謝ろう。

土下座してでも謝ろう。

「私が間違ってた」って。「やっぱり和也じゃなきゃダメだ」って。

彼は優しいから、きっと許してくれる。

「しょうがないなぁ」って苦笑いして、また頭を撫でてくれるはずだ。


だって、彼は私のことが大好きだったんだから。


息を切らして、和也の家の前にたどり着く。

見慣れた表札。手入れの行き届いた花壇。

二階のリビングの窓からは、温かいオレンジ色の光が漏れていた。


ああ、ここだ。

ここが私の帰る場所だ。

地獄のような現実から守ってくれる、唯一のシェルター。


私はインターホンに手を伸ばした。

指先が震えていた。寒さのせいか、それとも期待のせいか。


ピンポーン。


音が鳴る。

数秒の沈黙の後、スピーカーから男性の声がした。

和也のお父さんだ。


「……はい」

「あ、あの……相沢です。和也……いますか?」


必死で声を絞り出す。

すぐに「どうぞ」と言ってロックが解除されると思っていた。

だって、和也のご両親も私に優しかったから。


けれど、返ってきたのは、氷のように冷たい声だった。


『和也はいるが、会うつもりはないと言っている』


え?

思考が停止する。

会うつもりがない? 和也が? 私に?


「そんな……お願い、おじさん……話がしたいの……謝りたくて……」

『ミオちゃん。君が何をしたか、分かっているね? もう、君をこの家に入れることはできない』


拒絶。

完全なる拒絶。

あの温厚なお父さんが、こんな冷たい声で私を突き放すなんて。


「和也! 和也、そこにいるんでしょ!?」


私はなりふり構わず叫んだ。

お父さんじゃダメだ。和也と直接話せば、きっと分かってくれる。

彼は私を見捨てられないはずだ。


「お願い、出てきて! 私、行く場所がないの! リョウくんにも捨てられて、もう和也しかいないの!」


自分の口から出る言葉の浅ましさに気づきながらも、止められなかった。

惨めでもいい。プライドなんてどうでもいい。

この雨の中から、あの温かい光の中に入れて欲しい。ただそれだけだった。


『……和也?』

スピーカーの向こうで、受話器が受け渡される音がした。


「和也!?」

私はインターホンにしがみついた。


『ミオ』

聞こえてきたのは、私がよく知る、低くて落ち着いた声だった。

でも、その声のトーンは、私の知っている彼のものではなかった。


『和也、ごめんね! 私、本当にバカだった! リョウくんなんて最低だった! やっぱり和也が一番なの!』

『……お前は俺を選んだんじゃない。リョウに捨てられて、他に選択肢がなくなったから来ただけだろ』


図星だった。

何も言えなかった。


『嘘をつくな。あの日言ったこと、全部忘れてないぞ』

『重い、ぬるま湯、ペットじゃない』

『あれが本心だったんだろ?』


彼の言葉の一つ一つが、正確に急所を突いてくる。

怒鳴っているわけじゃない。淡々とした事実の羅列。それが何よりも怖かった。

彼はもう、私に怒りすら抱いていないのだ。

ただの「他人」として、事務的に処理しようとしている。


『和也……死んじゃうよ……私、このままだと……』

最後の切り札を使った。私の不幸を武器にする。今までずっとそうしてきたように。

これを言えば、彼は必ず折れる。


『……警察に行くなり、児童相談所に電話するなりすればいい』

『お前を助けてくれる公的な機関はいくらでもある』

『でも、それは俺じゃない』


プツッ。


通話が切れた。

モニターの明かりが消える。

あたりは再び、雨音だけの世界に戻った。


「嘘……」


私は膝から崩れ落ちた。

信じられなかった。

あの和也が。私のためにすべてを犠牲にしてくれていた和也が。

私を見殺しにするなんて。


ふと見上げると、リビングの窓のカーテンが少し開いているのが見えた。

そこから、和也の姿が見えた。

彼は家族とテーブルを囲んでいた。

湯気の立つ鍋。

お母さんが笑顔で何かを話し、お父さんがビールを飲んでいる。

和也も笑っていた。


私が今まで見たことのないような、心からのリラックスした笑顔。

私と一緒にいた時の、どこか心配そうな、気遣うような笑顔とは違う。

本当に幸せそうな顔。


あそこが、私の場所だったのに。

あの席に座って、一緒に「美味しいね」って言い合うはずだったのに。

私がそれをドブに捨てたんだ。

「刺激がない」なんて言って。


「和也……気づいて……」


私は雨に打たれながら、必死に念じた。

もう一度だけ、こっちを見て。

私のみすぼらしい姿を見て、可哀想だと思って。


その時、和也がふと窓の方を向いた。

目が合った気がした。


(あ……!)


私は手を伸ばした。

でも、彼は無表情のまま立ち上がり、カーテンを閉めた。


シャッ。


その音は聞こえなかったけれど、私の心の中で轟音となって響いた。

光が消えた。

温かさが遮断された。

私の入る隙間なんて、もう1ミリも残っていないのだと、世界中から突きつけられたようだった。


「うああぁぁぁぁ……っ!」


私はアスファルトを叩いて泣いた。

冷たい。痛い。苦しい。

でも、誰も助けてくれない。


リョウくんもいない。

友達もいない。

親は私を傷つけるだけ。

そして、唯一の避難所だった和也は、もう二度と扉を開けてくれない。


雨は私の涙を洗い流してくれるけれど、罪までは洗い流してくれない。

私が求めた「自由」と「刺激」の成れの果てが、この冷たいコンクリートの上でのたうち回る姿だったのだ。


もし時間を戻せるなら。

あの放課後、彼の手を振り払わなければ。

いや、もっと前。彼が深夜に公園に来てくれた時、心から「ありがとう」と言えていれば。

彼の作るお粥を、「味が薄い」なんて文句を言わずに食べていれば。


後悔は波のように押し寄せてくるけれど、すべてはもう遅い。

硝子の靴は砕け散り、魔法は解けた。

残ったのは、泥だらけの自分と、永遠に閉ざされた「幸せ」への入り口だけ。


私は寒さに震えながら、いつまでも、いつまでも、閉ざされたカーテンの向こうの光を想い続けていた。

もう二度と、私が触れることのできない、あの温かい光を。

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