稲の雫

@siinaenngaku

第1話

私は生まれた瞬間から農家にならなければならなかった。そうしなければこの村の者が、飢えて死ぬ。


私が物心つくようになったある日、絵本に書かれたパイロットを指さしたとき、何を言ったわけでもないのに、母がそれを否定した。


当時の私はまだ幼かったので、それがやけに腹に立ち、愛すべき母に向かって生まれて始めて口答えというものをした。もちろん初めての口論かつ語彙が同級生に比べ乏しい私が勝てる訳もなく、無情に言いくるめられご飯を抜かれるしまつをくらった。そこまでなら、この記憶は残らなかったと思う。


ひどく衝撃的だったのは、母がそれを親戚に言い広め、次の日平日であったにもかかわらず働いている男を除きほぼすべての親戚がうちに押しかけ「あんたは悪い子だ」「みんな死ぬことになるげんぞ。わかっとらんか?」と強く叱責した。半ば罵声のようなものを浴びせられ私は畳の上に土下座をして謝った。


その中でもっとも不可解だったのは、途中から淫らな矛先が私から母に変わり、母は泣き出し私の横に並んで私より低く頭を下げ、というより畳にこすりつけていた。


そんな地獄で育ったものだから皆が高校に行く中、私は一人父のコメ作りを手伝うことになった。


広い土地を機械なしでやっていたものだから、一日単調な繰り返し作業で倒れたりもしたが、その度どこから聞いたのか、親戚がやってきて人格否定を始めたのだ




そんな私のまだ短い人生の中で、父だけは私に農業をつげと言ったことが無かった。


本来なら一番言わなければならないのだろうが、仕事が終わると米のことについて何も言わず、食事で白米を食べるときも「あれ」や「それ」などあえて名称を言うのを避けているようだった


父は私よりもずっと気が小さい。だから何も言わなかったのだろうとばかり考えていた。


結局、父が死ぬその日まで一度も聞くことがなかったのだから真相は死んでから聞いてみないとわからない。


周りに言われるがまま米を作り、言われるがままご近所付き合いと汗水金をつぎ込んだ米を無料で配りにいかなければならなかった。




そんな時神が私をお救いなさった




未曾有の大雨がえらい長い期間続き、田んぼから稲が抜け、用水路が流されてきたもので詰まり、出荷できなくなった年があった。


その時何があったか、私の思った通り餓死者は出なかった。病にかかったものもいなく、いわば平和の年だった。ただ一つ私の母が亡くなったことを除いては


作りたくても作れないのだからしょうがないと私は割り切っていたが、村の甘い水で育った人間は、ただでもらうことが当たり前だと思っており、私の田植え方が下手だったなど、土の手入れを怠っていたなど、楽しそうに語り、それになぜか母は心を弱くし、年末には精神疾患で暴れまわり、その時に心臓発作を起こしてなくなってしまった。言わずもがな人間は「神様が天罰を与えなさったねぇ」「自業自得」などこれまた愉快に笑っていた


まぁ私もまたそれを聞いて苦笑いを浮かべるしかできない非情なのだが




私は今、田んぼの真ん中にいる。黄金に輝く稲に囲まれて寝ころんでいた


ある著名人が現代の黄金はビールであり、現代の石油はコーラだとあほくさいことを言っているのを思い出した。やはりあほくさい。黄金は麦ではなく稲だろう。隣で私を微笑むのを見てそう思った


太陽が頂点を過ぎた頃、私はそっと立ち上がった。かなり長い時間寝ころんでいたので、こころが随分落ち着く。昨晩考えていた通り、道具小屋からガソリンを取りに行こうと歩き始めると、案山子が見えた


今思えばこの案山子はいつからあるのか誰もわからない。もちろん私ではないし、父に聞いても違うと言っていた。祖父は不器用な人だったので違うだろう。


なら、私の血筋はずっとこの田んぼにとらわれてきたことになる。ともに、あの人間たちは何世代も我が家の誇りを奪ってきたのだろう。


ならこの錨も私が持っていくべきかもしれない。そう思い案山子を持ち上げた。それはえらく軽かった




人間を暖かく見守る太陽の下、周りを見ても黄金に染まっている。この光景はやはり何度見ても飽きない。


東京の人は田んぼを見て育っていないから非情だと口癖のように言っていたあの人も非情で、もちろんこんなことを思いつき実行する私も非情。


昔から人間は黄金を求める、黄金の中で燃え尽きるのなら本望なのだろう

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