記憶にありませんが、責任は取りましょう

楽歩

1.ここはどこ? 

 重たく沈む意識を、深い湖底からゆっくりと引き上げるように、私はそっと目を開けた。


 視界に差し込む白い光が鋭くて、思わずまぶたを細める。乾いた呼吸音が自分のものだと理解するまでに、少し時間がかかった。



「……っ! お目覚めでございますか!」


 驚いた声が聞こえ、侍女が慌ただしく駆け寄ってくる。栗色の髪をきっちりまとめ、エプロンの端をぎゅっと握りしめながら私を覗き込む。



「よかった……本当によかった……! すぐに旦那様をお呼びしてまいります!」


 侍女は半ば泣きそうな顔で、スカートを揺らしながら部屋を飛び出していった。残された空気だけが、まだ騒がしさを震わせている。




 ピンクの天蓋がふんわりと頭上を包み、透けるレースの縁が揺れている。シーツは肌に馴染む手触りで、枕元には香水の残り香のような甘い匂いがかすかに立ち上っている。


 白いマホガニーのドレッサー、曲線を描く鏡、その横には刺繍の施されたクッションが山のように積まれ、壁には花を描いた水彩画が几帳面に並んでいる。



 シャンデリアのクリスタルが朝の光を拾って、小さな虹を床に落としていた。




 再び扉が勢いよく開かれた。



「ララ!」

「お母様!」



 息を切らし、目の下に隈を作りながら、私を呼ぶその姿は必死そのものだった。その表情は安堵に満ちていて、目尻にはすでに涙の跡があった。



「ようやく、ようやく目を開けてくれた。三日も眠ったままだったんだ。階段から落ちた時のことは覚えてる?」


 三日?

 階段?


 彼の言葉は理解できるのに、脳がまったく反応しなかった。



「お母様、もう、目を覚まさないんじゃないかって、心配したんだよ?」


 小さな声がベットの脇から聞こえた。視線を向けると、涙で頬を濡らしながら、震える手でシーツの端を掴んでいた。


 私と同じ髪色、同じ瞳の色。




「痛むところはないかい?」


「頭がまだ少し痛みます」


 私は声を絞り出す。




「それは大変だ。医者はまだ来ないのか?」


 侍女が慌てて使いを出したと答えると、ほっとしたように息をついていた。



 しばしの沈黙。


 屋敷の外で、遠くに馬の嘶きが聞こえた気がした。



「ララ、本当に大丈夫かい?」


「お母様、元気ないね。もう少し寝る?」



 そっくりな顔つきの二人がそろって覗き込む。その姿が重なった瞬間、ふっと、どこか別の場所にいた自分が現実へ引き戻されるような感覚があった。



 ――ええ、そうね。きっと、そうなのだわ。



「ちょっとお聞きいたします。私はあなたの妻で、この子の母親、ということで間違いないでしょうか?」







 ****







「ララがおかしくなった!? そうだよ、私は君の夫でこの子は息子だ」

「お母様、変になっちゃったの!?」

「 医者! 医者を呼びますッ!! あっ! もう呼んでいました」



 叫び声と混乱。


 夫だという人はベッドの周りをぐるぐると歩き回り、落ち着きの欠片もない。


 息子と呼ばれた子は泣きじゃくりながら夫の袖を必死に引っ張っていて、侍女に至っては外の廊下へ向かって「お医者様~!」と、叫び続けている。



 ……誰か、ひとまず止まってくれないかしら。






「おかしい……ララが……ララが私を分からないなんて……!?」



 ぶつぶつ言い続け、そのまま床にしゃがみ込む姿は、もはや悲劇の主人公のようだった。



「忘れちゃったの?  僕のことも? 本当に!?」


 息子であろう子は半泣きで私の顔を覗き込み、ベッドにひっくり返りそうになっている。



 もはや何がしたいのかわからない。




「みなさん、あの……落ち着いてくださいませ」


 声をかけても、皆、同時にこちらを見るだけで、混乱は止まらない。



「言葉遣いがいつもと違う、混乱しているのか!?」

「お母様じゃないみたい」

「医者、早くお医者様を!!」



 ——自分より慌てている人を見ると、逆に冷静になるものなのね。



 大騒ぎの渦の中心にいるのに、なぜか私は淡々と状況を観察していた。






 階段から落ちた……と言われれば、確かにそうだった気がする。


 明日から学院に入学する予定で、胸がそわそわしていた。浮ついていたのは、まあ、認めざるを得ない。



 けれど——


 三日、眠っていた? 


 いや、この様子だと三日どころではない。三年、いやもっと経っていても不思議じゃないわね……。





「お医者様が到着いたしました!」



 侍女が勢いよく扉を開けた。後ろから白髪まじりの医師が慌ただしく入ってきて、椅子を引き寄せて私の傍らに座る。




「頭が混乱しているとか。では、いくつか質問をさせていただきますぞ」


 医師だけが唯一落ち着いているが、他の全員は青ざめ祈るように手を組んでいる。



 質問は淡々と続いた。


 名前、生家、家族、最後に覚えている日……。





「頼む……!」

「お母様……頑張れ……!」


 夫と息子はまるで戦場の負傷兵を見守る家族のように大騒ぎしている。


 そして、医師はきっぱりと言い放った。





「記憶喪失ですね」



 ——部屋の空気が止まった。



「……き、記憶……?」



 夫の目が見開かれる。


 医師はさらに厳しい表情で続けた。



「おそらく、今日までの十年分の記憶がすっぽり抜けております」




 その言葉に、夫はその場で崩れ落ちそうになる。




「そんな……十年だなんて……私たちが出会った頃から今まで、全部……?」


 彼は震える声で呟き、頭を抱えた。その横で息子が素朴に首をかしげる。



「どういうこと? ぼく、6歳だよ?」


 部屋が、再びざわざわと震えた。




 10年。

 10年の空白。

 私が知っているのは学院入学前の、十五か十六の頃の記憶。


「……じゃあ私、今二十六なのかしら?」



 混乱する彼らとは裏腹に、私は丁寧に姿勢を正した。



「私の名前は、アイラ・ラングフォード。ララは愛称でしょうか? どうにも聞き慣れませんので、今後はアイラとお呼びくださいませ。つきましては、初対面のようなものですし、皆様の自己紹介をお願いできますか?」






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