第9話「氷の裁き、崩れ落ちる虚飾」

 中央都市銀行、役員会議室。

 重厚なマホガニーのテーブルを、頭取をはじめとする銀行の重役たちが囲んでいる。

 張り詰めた空気の中、上座に座る橘蓮が、静かに口を開いた。


「本日は、現在進行中のプロジェクトに関する内部調査の、最終報告をさせていただきます」


 蓮の声は、氷のように冷たく、静まり返った会議室によく響いた。

 彼の隣には、腕利きの弁護士たちが控え、その手には分厚い調査報告書が握られている。

 高梨課長も、末席で緊張した面持ちで座っていた。

 彼は、まさか自分がこの場で断罪されることになるとは、まだ気づいていない。


「調査の結果、プロジェクトの遅延と混乱の原因は、現場責任者である高梨課長の、極めて杜撰な管理体制と、度重なる判断ミスにあったと結論づけられました」


 蓮の言葉に、高梨の顔がこわばる。


「なっ……何を言うんですか、橘監査役!それは、部下であった水瀬の能力不足が原因で……!」


「黙りなさい」


 蓮の低い声が、高梨の反論を遮った。

 その声には、有無を言わさぬ圧があった。


「彼の能力不足、ですか。では、これは何です?」


 蓮が合図すると、弁護士の一人がプロジェクターを操作し、スクリーンに数々の証拠が映し出された。

 高梨が承認した企画書の矛盾点。

 彼が業者から不正なリベートを受け取っていたことを示す、金の流れ。

 そして、プロジェクトの失敗の責任を湊になすりつけるために、部下たちに偽の報告書を作成させていた、音声データ。


「こ、これは……!」


 高梨の顔から、急速に血の気が引いていく。

 役員たちも、次々と映し出される動かぬ証拠に、言葉を失っていた。


「さらに、高梨課長は、水瀬君の名誉を著しく毀損する、悪質な虚偽の情報を組織内に流布しました。彼がオメガであることを暴露し、業務とは全く関係のない性的指向を揶揄し、差別を助長した。これは、人権侵害であり、断じて許される行為ではありません」


 蓮の瞳が、怒りの炎で鋭く光る。


「そして、最も悪質なのは、この捏造された情報を、週刊誌にリークしようとしたことです。水瀬君個人だけでなく、当行、ひいては橘財閥全体の信用を失墜させようとした。これは、明白な背任行為だ」


 スクリーンに、高梨と週刊誌記者の通話記録のテキストが表示される。

 これで、完全に勝負は決まった。

 高梨は、がっくりと椅子に崩れ落ちた。

 顔は土気色になり、もはや何の反論もできない。


「頭取」


 蓮は、顔面蒼白になっている頭取に視線を向けた。


「橘財閥として、今回の件を看過することはできません。高梨課長に対する、懲戒解雇を含む最も厳しい処分を要求します。また、彼がこれまでに行ってきた不正によって銀行が被った損害については、全額賠償請求を行う。そして、彼を刑事告発することも、すでに決定しています」


 それは、宣告だった。

 高梨の銀行員としての人生が、完全に終わった瞬間。


「また、彼の虚偽の情報を鵜呑みにし、噂の拡散に加担した職員についても、厳正な処分を求めます。対象者のリストは、こちらに」


 蓮が差し出したリストには、十数名の名前が記されていた。

 彼らは、ただの噂話のつもりだったのだろう。

 その軽率な行動が、自分たちのキャリアを危うくすることになるとは、想像もしていなかったに違いない。

 これが、橘蓮のやり方。

 敵と見なした相手には、一切の情けをかけない。

 完璧な証拠で、再起不能になるまで、徹底的に叩き潰す。

 まさに「氷の支配者」そのものだった。


 ***


 その日の夜。

 僕は、蓮さんから事の顛末を聞いていた。


「高梨課長は、懲戒解雇。そして、警察に身柄を引き渡されたそうだ。噂を広めた他の職員も、相応の処分が下されることになるだろう」


 淡々と語る蓮さんの横顔を見ながら、僕は複雑な気持ちでいた。

 胸がすくような思いと、同時に、一人の人間の人生を終わらせてしまったことへの、わずかな痛み。


「……これで、良かったんでしょうか」


 僕がぽつりとつぶやくと、蓮さんは僕の手をそっと握った。


「良かったんだ。彼らは、自らの行いの報いを受けたに過ぎない。君が、心を痛める必要はどこにもない」


 彼の温かい手が、僕の迷いを溶かしていく。


「君は、卑劣な悪意に打ち勝ったんだ。胸を張りなさい、湊」


「……はい」


 僕は、小さく頷いた。

 長くて暗いトンネルを、ようやく抜け出すことができた。

 僕の足枷となっていた、中央都市銀行という名の呪縛は、もうない。

 僕は、自由になったんだ。

 その事実が、じわじわと実感となって胸に広がっていく。


「さて」


 蓮さんが、少しだけ明るい声を出した。


「これで、厄介ごとは片付いた。……一つ、君に相談があるんだが」


「相談、ですか?」


「ああ。君の、家族のことだ」


 思いがけない言葉に、僕は息をのんだ。

 家族。

 それは、僕がずっと目を背けてきた、もう一つの大きな問題だった。

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