第2話「氷の支配者、その名は橘蓮」

 橘蓮と名乗った男の登場で、オフィスの空気は一変した。

 誰もが息をのみ、緊張した面持ちで彼を見つめている。

 高梨課長が、慌てて駆け寄ってきた。


「これは橘様!ようこそお越しくださいました!私が当課の責任者、高梨です!」


 さっきまでの尊大な態度はどこへやら、媚びへつらうような声色に、吐き気がする。

 橘蓮は、そんな課長には目もくれず、ただじっと、僕を見つめていた。

 その視線は鋭く、まるで心の中まで見透かされているようだ。


『なんで、僕を……』


 僕と彼は、今日が初対面のはずだ。

 なのに、なぜか彼の視線からは、ずっと前から僕を知っていたかのような、奇妙な親密さが感じられた。

 恐怖と、それとは正反対の、引き寄せられるような感覚。

 相反する感情に、頭が混乱する。


「水瀬君。君がこのプロジェクトから外れると聞いたが、本当かね」


 橘蓮の問いに、高梨課長が割り込んできた。


「は、はい!彼には少々、能力不足な点が見受けられまして!橘様にご迷惑をおかけするわけにはいきませんので、私が責任を持って判断いたしました!」


 得意げに胸を張る課長。

 僕は唇を噛んだ。

 反論したくても、声が出ない。

 橘蓮から放たれる圧倒的なアルファのオーラに、体が完全に萎縮してしまっている。


 橘蓮は、僕と課長の顔を交互に見比べると、ふっと、かすかに口の端を上げた。

 それは、笑みと呼ぶにはあまりに冷たく、人を凍てつかせるような表情だった。


「能力不足、か。私が事前に目を通した資料では、このプロジェクトにおける彼の貢献度は群を抜いていたが」


 彼の静かな言葉に、課長の顔がひきつった。


「そ、それは……」


「彼が作成した市場分析レポートは、実に的確で無駄がない。むしろ、他のメンバーの仕事の方がよほど雑で、修正箇所が目立った。……特に、君の最終承認印が押された企画書は、矛盾点だらけだったな。高梨課長」


 冷や汗を流し、言葉に詰まる課長を、橘蓮は氷のような瞳で見下ろす。

 フロア全体が、しんと静まり返った。

 誰もが、この若き支配者の、次の言葉を待っている。


『この人、一体……』


 僕をプロジェクトから外した張本人である課長を、なぜ庇うどころか追い詰めているんだ?

 橘蓮の意図が読めず、僕はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。


「まあ、いい。銀行内部の人事には、今のところ口を出すつもりはない。だが、一つだけ言っておく」


 橘蓮は、再び僕に視線を戻した。


「このプロジェクトは、今日から私が全責任を負う。君たちがこれまでやってきたやり方は、全てリセットさせてもらう。異論は認めん」


 その言葉は、絶対的な王の宣告だった。

 誰も、逆らうことなどできない。


「水瀬君」


 不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。


「君には、私が直々に指示を出す。今日のところはもう帰りなさい。顔色が悪い。……ちゃんと、休むように」


 それは、命令とも気遣いとも取れる、不思議な響きを持った言葉だった。

 周りの同僚たちが、驚きと嫉妬の入り混じった目で、僕を見ている。

 なぜ、橘蓮が僕にだけ、こんな言葉をかけるのか。

 彼らの視線が、針のように突き刺さる。


「……失礼します」


 僕は逃げるように頭を下げ、荷物を持ってオフィスを後にした。

 エレベーターに乗り込み、扉が閉まった瞬間、張り詰めていた糸が切れて、その場にへたり込みそうになる。


『疲れた……もう、何も考えたくない……』


 橘蓮という男の出現は、僕の心をさらにかき乱した。

 彼のフェロモンは、今まで感じたどのアルファのものよりも強く、そして心地よかった。

 雪深い森の香り。

 それは、僕のオメガの本能を優しく撫で、同時に抗いがたい眠気を誘う。


 抑制剤で無理やり押さえつけているはずの体の奥が、じんわりと熱を帯びてくるのを感じた。

 まずい。

 これは、本当にまずい兆候だ。


 アパートに帰り着いた僕は、鍵を開けるのももどかしく、玄関になだれ込んだ。

 そのままベッドに倒れ込み、泥のように眠る。

 夢を見た。

 どこまでも続く、真っ白な雪原を一人で歩いている夢。

 冷たい風が吹きすさび、体温が奪われていく。

 凍えて、もう一歩も動けない。

 諦めて雪の上に倒れ込んだ僕を、温かい何かが、ふわりと包み込んだ。

 それは、月光を浴びた新雪のように輝く、銀色の毛皮を持った、大きな狼だった。

 狼は僕の隣に寄り添い、その体温で僕を温めてくれる。

 不思議と、怖くはなかった。

 むしろ、心の底から安らいでいくのを、感じる。

 狼の瞳は、あの男と同じ、黒曜石の色をしていた。


 ***


 翌日。

 重い体を引きずって出社すると、オフィスの雰囲気は、昨日とはまるで違っていた。

 誰もが無駄口を叩かず、緊張した面持ちでパソコンに向かっている。

 その中心にいるのは、言うまでもなく橘蓮だ。

 彼は、昨日僕がいたデスクにどっかりと腰を下ろし、凄まじい集中力で分厚い資料の山に目を通していた。


 僕が自分の席、昨日まで使っていた場所から一番遠い、窓際の隅に追いやられていた席に着くと、すぐに内線が鳴った。


『橘蓮』


 ディスプレイに表示された名前に、心臓が嫌な音を立てる。

 恐る恐る受話器を取ると、あの低い声が、耳に響いた。


「監査役室まで来い。すぐにだ」


 一方的に告げられ、通話が切れる。

 断るという選択肢はない。

 僕は重い足取りで、フロアの奥に新設された、ガラス張りの部屋へと向かった。


 ノックをして中に入ると、橘蓮はデスクの向こう側から、僕を値踏みするように見つめていた。


「座りなさい」


 促されるまま、革張りのソファに腰を下ろす。

 部屋の中は、彼のフェロモンで満たされていた。

 雪の森の香りが、昨日よりもずっと濃い。

 くらり、と目まいがした。

 抑制剤を飲んできたはずなのに、全く効果がない。


「顔色が、昨日より悪いな」


 橘蓮が、静かに言った。

 その声には、棘もなければ、蔑みもない。

 ただ、事実を淡々と述べているだけ。

 それが逆に、僕を追い詰めた。


「……申し訳ありません」


「謝る必要はない。だが、自己管理も、仕事のうちだということは覚えておけ」


 冷たい言葉。

 でも、不思議と突き放された感じはしなかった。

 彼は立ち上がると、僕の隣にやってきて、ソファの背もたれに片腕を乗せた。

 ぐっと距離が近づき、彼の香りが、さらに強くなる。


「君が作成した、この資料だが」


 彼が手にしていたのは、僕がこのプロジェクトの初期段階で分析した、膨大なデータファイルだった。


「いくつか、気になる点がある。説明してもらおうか」


 そこから、まるで尋問のような時間が始まった。

 橘蓮は、僕がまとめた資料の隅々まで、鋭い質問を投げかけてくる。

 なぜこの数値を採用したのか。

 この結論に至った根拠は何か。

 代替案は考えなかったのか。

 彼の質問は常に的確で、一切の妥協を許さない。

 僕は必死に頭を回転させ、一つ一つの質問に答えていった。

 最初は緊張で声が震えていたが、仕事の話に集中するうちに、少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 気がつけば、一時間以上が経過していた。


「……なるほど。よく理解できた」


 橘蓮は、満足したように頷いた。


「君の分析は、噂通り正確だ。いや、それ以上だな。高梨のような無能には、君の価値は理解できんだろう」


 突然の、あまりに直接的な賞賛の言葉に、僕はどう反応していいかわからなかった。

 今まで、この銀行で誰かに真っ向から褒められたことなんて、一度もなかったから。


「あ……ありがとうございます」


「礼を言う必要はない。事実を述べたまでだ」


 橘蓮はそう言うと、僕の顔をじっと覗き込んできた。

 長いまつげに縁取られた、黒い瞳。

 その奥で、静かな炎が揺れている。

 その瞳に見つめられていると、すべてを見透かされてしまいそうだった。


「水瀬君」


 彼の指が、そっと僕の頬に触れた。

 ひやりとした指先の感触に、全身が総毛立つ。


「君は、ここで燻っているべき人間じゃない」


 囁くような声。

 その言葉が、僕の心の奥深くに、じんわりと染み込んでいく。

 同時に、彼の指先から、甘く痺れるようなアルファのフェロモンが、直接流れ込んでくるのを感じた。


『だめ……これ以上は……!』


 本能が、危険信号を鳴らしている。

 この男は、危険だ。

 僕のすべてを暴き、支配しようとしている。


 僕は、弾かれたように、彼の手を振り払った。


「っ……失礼します!」


 椅子から立ち上がり、逃げるように部屋を飛び出す。

 背後で、橘蓮が何かを言ったような気がしたが、もう聞こえなかった。

 自分のデスクに戻り、僕は荒い息を繰り返す。

 触れられた頬が、火傷したように熱い。

 心臓が、今にも張り裂けそうなくらい、激しく鼓動している。


 橘蓮。

 あの男は、一体何者なんだ。

 なぜ、僕にこれほど執着するんだ。


 僕の平穏だった、と錯覚していた偽りの日常は、彼の出現によって、確実に壊れ始めていた。

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