婚約破棄された地味令嬢は、無能と呼ばれた伯爵令息と政略結婚する ~あなたが捨てたのは宝石でした~

新川 さとし

第1話 その夜、私は婚約者ではなくなった

 王宮大広間は、今宵も滞りなく進行していた。ただし、お客様の満足度を上げるには、常に微調整は必要だ。


「楽団、今日の出席者は若い方が多いわ。テンポを少しあげて」

「給仕は南側をもっと手厚く。北方伯は注文を細かく出されるわよ」


 私のそばにいる使用人たちに、小声で指示を続けた。パーティー会場から、最後の一人が帰るまで、一瞬たりとも気を抜けない。


 もちろん、熟練した使用人たちは即座に応えてくれる。


 第二王子主催の舞踏会。その準備も進行も、すべて私が整えてきた。


「殿下、間もなくファーストダンスのお時間です」


 そう告げると、シャルル殿下は不機嫌そうに眉をひそめると、わざとらしいため息をついた。


「またそれか。細かいな、お前は」


 吐き捨てるようなセリフ。


「社交において、象徴となる大切な場面ですから」

「はいはい。わかってるって。どうせ、全部、お前が正しいんだろ」


『本当に、わかってくださるなら、私だって言わなくて済むのに』


 背中を向けた殿下に、私は何も言わず一礼した。

 婚約者として、補佐として。私は常に一歩引くように心がけてきたけれど、それでも殿下のお気に召さないのはどうにもならない。


『かと言って、何も言わなかったら、みんなが困るもの。ここで、黙っているのはダメよ』


 既に、家臣達は殿下への諫言を諦めてしまった。そのすべてが私に回ってくるから、十に一つくらいにして、できるだけ言葉を柔らかくして伝えてきているけれども、それだって殿下はお怒りだ。


「文句ばっかり言うな!」

「オレに注文したいなら、お前の顔を直してから言え、ブス!」

「したり顔ばかりして、いい気になるな!」


 聞くに堪えない言葉が返って来るばかりだ……


 音楽が変わった。ファーストダンスへと導く曲だ。


 本来なら、ここで私の手が取られるはずだった。しかし殿下は、小さな段を軽やかに降りると、一人の令嬢の元へと足早になった。


「ロザリンド、行こう」


 その声に、胸が押しつぶされる。


 ファーストダンスの誘いの手は、婚約者である私へは向けられなかった。


 ピンク髪の男爵令嬢が、殿下の手を取ったのだ。


 言葉を喪った私は口の中だけで「殿下」と言っていた。


 ロザリンドは、私の声なき声が聞こえたように、勝ち誇った表情で私を一瞥した。


 ……わざとらしく笑ってから、声のトーンをあげた。


「まあ、光栄ですわ。王子殿下♡」


 周囲がざわつく。


「え、あれ……?」

「婚約者は、侯爵令嬢じゃ……?」

「クリスティーヌ様は、いったい!」


 私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 音楽が始まり、二人は当然のように中央へ進む。

 誰も止めない。

 誰も、私を見ない。


 人々は、中央で踊る殿下から距離を取るように、ぎこちなくステップを踏んでいた。


 曲が終わった瞬間、広間は静寂で満たされた。楽団が静かに曲を流しているけど、誰も音楽など耳に入れてなかった。


 シャルル殿下は私の方を振り返り、面倒そうに言った。


「なあ、ちょうどいい。皆もいるし、言っておく」


 嫌な予感が、背筋を凍らせる。


「クリスティーヌ! お前との婚約を破棄する」


 静まり返った大広間を、張りつめた緊張感が支配した。


 殿下は、その緊張感など気付かぬようで、むしろ静寂をこれ幸いと、喋り続けた。


「だってさ、地味だろ? 一緒にいても楽しくないし、何でもかんでも口出ししてきて、あれを正しく、これをもっと正しく、そっちもやれ…… 何様だよ、お前。はあ、息が詰まるんだよ!」


「……殿下、しかしながら、それは」


 思わず声が出た。


 すると、彼は苛立ったように睨みつける。


「ほら、そういうところだ! オレをバカにしてるだろ? なんでも自分が正しいと思ってる、したり顔女め!」


 くすくすと、笑い声が広がる。女性たちの悪意ある密やかな声が、静寂ゆえに響くのだ。


「確かに、華はないわね」

「優秀でも、女としてはどうかしら」

「王子殿下には、もっと相応しい方が……」


 ロザリンド様は、流行をこれでもかと詰め込んだ、眩しいほどに鮮やかなピンクのドレスを纏っていた。胸元を大胆に開け、歩くたびに大粒の宝石を揺らす彼女は、確かに殿下の好む「華やかさ」そのものだ。


 対して私は、王宮の夜に馴染む深い群青ナイトブルーのドレス。王家の象徴たる色を汚さぬよう、かつ、実務で動き回る私を支える文官たちが気後れせぬよう、あえて控えめな刺繍に留めたもの。


 殿下には、この刺繍が隣国の最高級の絹糸を使い、職人が三ヶ月を費やして刺した「究極の控えめな贅沢」であることなど、一生お分かりにならないのでしょうね。


「ロザリンド、行こう」


 殿下の瞳には、ただ刺激的な色彩だけが映っていた。その隣にある、本物の気品には目もくれずに。

 私は説明する言葉も、そして気力も喪っていた……


 ロザリンドが、腕に胸を押し当てて甘えた声を出す。


「殿下、そんな地味な人より、私のほうがいいですよね?」

「ああ、もちろんだ」


 その瞬間、私の中で何かが音を立てて折れた。


 ――三年間。

 王立学園で寝る間を惜しんで学んだ。


 しかも、彼を支えようとしたのは、もっと前からだ。


 幼い頃に婚約して以来、必死に「王子妃」としての完璧を目指してきた。彼の代わりに頭を下げ、調整し、支え続けたつもりだ。


 そのすべてが、「地味」の一言で切り捨てられる。


 その時、多分、私の心が弾けてしまったのだろう。


「……承知いたしました」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「婚約破棄、お受けいたします」


 ざわめきが、一層大きくなる。


 殿下は、恐らく私が言葉を返すと思ったのだろう、拍子抜けしたと言わんばかりの顔をした後、嘲るように声を出した。


「ほらな、あっさりだろ? お前は心がない人形みたいだって、オレの言ったとおりだな」


 そう言い放つシャルル殿下の背後で、私はふと、一人の青年を見てしまった。


 なぜなのかはわからない。


 壁際に立つ、目立たない青年は、とび色の瞳で、悲しそうに眉を寄せている。


『あなたは、なぜそんな表情をなさるの?』


 一学年下の「天才」と言われるヴァルディス伯爵家の長男、ノエル様。


 彼だけは、この場の異常さを理解し、何かモノ言いたげに見えた……


『ううん、気のせいよ。彼とは話したことすらないもの。誰も気付いてない、私の下働きなんて、わかるはずがないわ』


 私はすべてを諦めると、深く一礼し、大広間を後にする。


 背後では、音楽と笑い声が再び流れ始めていた。


 その場にいた誰もが、笑っているふりをしていた。


 けれど、その笑顔の裏に浮かんだ安堵と恐怖に、シャルル殿下だけが気づいていなかった。


 その夜、私は婚約を破棄された「キズモノ令嬢」になった。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

読んでくださって、ありがとうございます。

本作は「理不尽に切り捨てられた人間が、正しい場所で正しく評価される」物語です。

冒頭は辛い展開ですが、この先で必ず意味を持ちます。

次回、もう一人の主人公が登場しますので、よろしければ続きもお付き合いください。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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