第5話 氷の王冠(逡巡の女神:カレン編)

 寒波を乗り越えたエルディア村──


 ゲノンの亡き後、自然と話題は「次」を求めていた。


 村長職は、通常なら息子のバロックに継がれる。だが、集会は別の熱で満たされていった。


 「村の枠では小さすぎる」

 「我らは、かつて王国だった。記録が語っている」


 古文書の断片、古代文字が書かれた石碑、語り継がれる伝説。干ばつの救済と、冬の調律が、これら全てを “今ここ” の現実に結びつける。


 「王国を、エルディア王国を、ふたたび」

 待望論は、炎のように燃え上がる。


 バロックは立ち上がる。

 「父は、豊かな暮らしを望んでいた。もし王国がそれをもたらすのなら——私は、反対しない」


 その言葉は遠慮ではなく、時代の流れを認める証だった。


 古くからの家の長も、若き自衛団も、商いの者も、農夫も、口々に同意の火を投げ入れる。


 「王国が必要だ!女王だ!」

 「我らを、導く力が必要た!」

 「存続の為の統一だ!」


 そして口は自然に、二人の名を語る。


 「古代文明に選ばれたカレン様が女王だ!」

 カレン女王!レオン王配!


 ふたりが、村を、近隣の村々を、さらに先の町まで包む「王国」の形を指し示すのだと……


 カレンは席の端に座っていた。

 歓呼の渦の外側……


 彼女は自分の膝の上で指を絡め、爪の白さを眺めていた。


 ──これでいいのだろうか。

 ──私は、本当に“導く者”になれるのだろうか。


 脳裏に、姉、ソフィアの言葉がよぎる。

 「きっと、祈りは誰かを操るためにあるんじゃない。寄りかかるためにもね」


 そう言って笑った姉の顔を思い出す。


 寄りかかられる今の自分は、どこに寄りかかればいいのだろう。

 レオンの横顔を盗み見る。彼の目は強く、それでいて真ん中に小さな憂いを宿している。


 ──この人なら、受け止めてくれる。

 でも、いつか……それが重荷となり、彼の憂いの中心が私になってしまったら?


 「レオン……どうしよう?」

 「俺は……どんな時もカレンを守るよ。一緒に戦うよ。」


 カレンは、膝の上で自分の手の平を眺める…

 (私の血はエルディアの為なの?)


 カレンは、もう一度レオンを盗み見る。レオンは、ゆっくりと頷いた。


 レオンの腕の中には、長女「オーロラ」が抱かれていた。


 その幸せそうな寝顔を見つめた。



 「……受けましょう」

 声は自分のものに思えないほど落ち着いていた。


 「私とレオンで、エルディアを導きます。皆の暮らしのために。子どもたちの未来のために」


 レオンが静かにもう一度頷く。

 「逃げない。やるべき時に、やるべきことを」


 その言葉に、広間の空気が揺れる。拍手が低い雷鳴となって、梁を震わせた。


 * * *


 戴冠たいかんの儀は、雪解けと共に行われた。


 広場の中央に石の壇が組まれる。翡翠色の布に金の縁取り……古い旗が風を受け、伝承の紋が朝の光に浮かび上がる。


 カレンは白と薄緑を基調とした淡く輝く衣を纏う。


 レオンは簡素な黒の上衣に、肩飾りだけを加える。彼は華美を好まないが、今日だけは人々の視線の重さを受け取る役割を引き受けていた。



 司祭が古い言葉で祝詞を唱え、太鼓が低く鳴る。


 近隣の皇族、有識者、各村や町の代表。義理父のバロックと家族、そしてエレーナの腕の中で、娘のオーロラが見守った。


 カレンの胸は、静かに、しかし確かに震えていた。


 ──これは、私個人の戴冠ではない。

 ──祈りと論理、自然と装置、民意と責任、その全部が“形”になって私の背に積まれる儀式。


 目を閉じて深く息を吸うと、暖かい空気に土の匂いが混じっていた。春の土の匂いだ。


 『 女王カレン・エルナート、王配レオン・エルナート 』

 ふたりの名が高く告げられ、歓声が空に放たれた。


 カットされた鉱石が輝き、草花を模した細工が施された王冠が、カレンのプラチナブロンドの髪を輝かせた。


 誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが祈る。

 カレンは笑む。笑いながら、心のどこかが静まっていくのを感じた。


 それは諦めではなく、決意が結晶化していく手触りだ。


 ──やるわ。


 手を伸ばしたのなら、最後まで。

 子どもたちが、遠い未来で笑いに包まれるように──


 * * *


 王国の旗が近隣の村々にも掲げられ、穀倉と工房は秩序ある流れに結ばれた。


 国民皆が公平に、配分は透明に。古い慣習も、少しずつ形を変えていく。


 カレンは朝には役人と調整に臨み、昼には学舎に顔を出し、夜には病棟を回る。彼女の歩みの先で、誰かが礼をし、誰かが手を伸ばし、誰かが期待を載せる。


 レオンは武と治の均衡を保った。

 彼は境界の監視を強める一方、押し付けではない同盟の形を模索し、道路と橋の整備を進めた。


 夜、机を挟んで地図の上にふたりの指が重なる時、彼の横顔の憂いは少し薄れた。


 レオンが言う。「うまく、回り始めているね」

 「ええ。今のところは……」カレンは答え、目を伏せる。


 心の奥では、あの薄氷がまだ溶けずにいた。


 ──私の “祈り” は、どれだけ自然に重ねていいのだろう。

 ──どこまでが “導き” で、どこからが “支配” なのだろう。


 彼女は夜更けに、塔の上で空を見た。星は冷たく、しかしどこか優しかった。


 遠い昔、誰かが同じ星を見上げ、祈りと論理を重ね合わせ、文明を築き、滅びに近づいたのだろう。


 エルディアの女王、カレンは今日も祈った。


 「 エルディアの皆が幸せでありますように…リュミエールの皆が幸せでありますように……


 ソフィアお姉様も………………早く…もう一度…会いたい………LUMIÈRE ELDIA ZOĒ AURORA 」


 * * *


 王国建国の祝宴が一段落した頃、夜は静かに深くなった。カレンは、娘オーロラの寝顔を見ながら眠りについた――



 その頃、月光の夜空へ一騎の馬が舞い上がっていた。


 鞍上の少女は翡翠の髪を風に解かれ、胸に翠色の光を宿す剣を抱いていた。


 馬型の浮遊機は、王国の新しい灯の群れを、遠い群青の中から眺めていた──

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