第20話 黄昏の贖罪と、はじめての温度
汲み取り屋の過酷な仕事が終わり、いつもの小川へと向かう。
夕闇が迫る水面に身を浸し、肌にこびりついた汚れと、鼻を突く悪臭を冷たい水で洗い流した。
この半年間、ぼくの日常は常にこの臭いと共にあった。
それはニートだったぼくが、この残酷な世界で「生きていく」ために、そして「守る力を得る」ために選んだ、泥臭い勲章のようなものだ。
湿った服のまま家路を急ぐ。オレンジ色から深い紫へと溶けていく空の下、宿屋まであと少しというところで、背後から凛とした、けれどどこか震える声が響いた。
「ねぇ。ちょっといい?」
心臓が跳ねた。
振り返るまでもない。半年間、片時も忘れたことのない、魂に刻まれた声。
……イリスだった。夕陽を背負って立つ彼女の金髪が、最後の光を反射して神々しいほどに輝いている。
「イリス……。こんにちわ。どうしたの?」
ぼくの声は、自分でも驚くほど上ずっていた。彼女の瞳を直視できず、思わず視線を泳がせてしまう。
「決闘裁判のこと……聞いたわ」
イリスの一言で、周囲の空気がピンと張り詰めた。
「なぜ? アンタに助けてもらう筋合いなんて、どこにもないはずなのに。……それに、私はもう……」
突き放すような言葉。
けれど、その奥に潜む戸惑いと、自虐的な悲しみをぼくは見逃せなかった。
沈黙が流れる。
ぼくの頭の中では、伝えたい言葉が濁流のように渦巻いていた。けれど、喉の奥が熱く焼けたように乾いて、うまく音にならない。
ただ、バクバクと暴れる心臓の鼓動だけが、耳の奥でうるさいほどに響いていた。
もう、誤魔化すのはやめよう。
ぼくは拳を握りしめ、逃げ場をなくすように彼女の瞳を見つめ返した。
「……また、キモいって思われるかもしれない。でも、言わなきゃいけないんだ」
「ぼくはイリスが好きなんだ。初めてこの世界でキミに会った時から……ずっと、それだけがぼくを動かしてた」
イリスの長い睫毛が微かに揺れた。
「じゃあ……どうして今まで黙ってたの? 直ぐに私の所に来て『守った』って言えば、その……私を好きにさせるチャンスだって...あったはずでしょ?」
彼女の問いに、ぼくは自嘲気味に笑った。視線の先にある自分の掌を見る。
汲み取りの仕事で硬く荒れ、節くれだったその手は、かつてのニートだった頃の白くひ弱な手とは似ても似つかない。
「合わせる顔が、なかったんだ……」
「ぼくは、あの時キミの前から逃げた。何もできず、ただ怯えていただけの、弱くて卑怯な人間だったから」
言葉が溢れ出す。それは半年間、ぼくの心に澱(おり)のように溜まっていた後悔の告白だった。
「自分の弱さが嫌で堪らなくて、フレイに発破をかけられて……。それから必死に、地べたを這いずるように頑張ってきた。けれど、ぼくが力を蓄えていたこの半年間、キミはずっと地獄の中にいたんだよね。一番つらかった時にそばにいなかったぼくが、ヒーロー面して現れるなんて……そんなの、許せなかった。ぼくは、キミを救えなかった自分を、ずっと許せなかったんだ」
ぼくは深く頭を下げた。視界が滲む。
「本当に、ごめん。強さなんて二の次でいいから、もっと早く、どんな格好でもいいからキミを助けにいくべきだった……」
返事はない。ただ、夕風に吹かれる草の音だけが聞こえる。 「……キモいよね。ごめん。忘れて――」 そう言って背を向けようとした瞬間だった。
「キモい……なんて、言うわけないじゃない!」
弾かれたような声に顔を上げると、イリスの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出していた。彼女は溢れる涙を拭おうともせず、声を絞り出す。
「つらかった……。何度も、死んでしまおうと思った。こんな体、汚れてしまった自分なんて、大嫌いで……。それなのに、そんな私を『好きだ』なんて……命を懸けて守ってくれるなんて……」
彼女の膝がガクガクと震えている。これまでの重圧から解放された、糸が切れた操り人形のような危うさ。
ぼくは思わず一歩踏み出し、彼女の細い肩を強く抱き寄せた。
「……好きだよ。イリス。キミがどんな過去を背負っていても、ぼくはキミのために死ねる。キミがいたから、ぼくはニートだった自分を捨てて、ここまで変われたんだ」
腕の中のイリスが、ひっそりと瞳を閉じた。
不意に、ぼくは自分の体の匂いが気になった。どれほど洗っても、染み付いた汚物の匂いが消えていないのではないか。
「……ぼく、臭くないかな」
弱々しく尋ねるぼくに対し、イリスは首を横に振り、さらに深くぼくの胸に顔を埋めた。
「ううん。……お日様の匂いと、一生懸命頑張った人の、温かい匂いがするわ」
その言葉で、ぼくの中の劣等感は、夕闇に溶けるように消えていった。
吸い寄せられるように、顔を近づける。
触れた唇は、驚くほど柔らかく、そして温かかった。
夕闇の中、世界から音が消えたような錯覚に陥る。
永遠とも思えるほどに長い口づけ。
汲み取り屋の仕事で固くなったぼくの掌が、彼女の震える背中を優しく支える。
かつて人を殺めることすら考えたこの手が、今は何よりも尊いものを抱きしめている。
やがてゆっくりと唇を離すと、イリスはどこか夢見心地な表情で、ぼくを見つめていた。
「……キスって、こんなに気持ちが良くて、温かいものだったのね」
腕の中のイリスは、驚くほど冷えていた。まるで、ずっと暗い氷の底で凍えていたかのように。
ぼくは自分の体温すべてを彼女に移すつもりで、その小さな背中を包み込んだ。
ぼくの胸で彼女が嗚咽を漏らすたび、彼女を縛っていた見えない鎖が、一つ、また一つと音を立てて砕けていくのが分かった
「帰ろう。……送っていくよ」
ぼくは彼女の小さく震える手を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという強い決意を込めて、自分の荒れた手で包み込んだ。
見上げれば、群青色の空に一番星が静かに瞬き始めている。
地獄のような半年間が、今、ようやく終わりを告げ、二人の新しい夜が始まろうとしていた。
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