胡蝶の標本 ― Pinned by Gravity ―

@EKA_HECHI

第1話:重たい弁当


1. バグった日常


「神崎、この資料のここ、数字合ってないぞ」


「あ、すみません……すぐ直します」


入社3年目のシステムエンジニア、神崎徹(かんざき とおる)は、先輩に頭を下げながら、内心で深いため息をついた。


まただ。


最近、こういう些細なミスが増えている。


徹は自分のデスクに戻り、ディスプレイを睨んだ。


深夜23時。オフィスの空気は澱んでいる。



周りを見渡すと、同期のやつらは死んだ魚のような目でキーボードを叩いているし、課長は栄養ドリンクを飲みながら電話で誰かに謝っている。


(……なんで、みんなこんなに必死なんだろ)


ふと、そんな冷めた思考がよぎる。


徹自身も必死なはずだ。

納期は近いし、奨学金の返済もあるし、ここで評価を落とすわけにはいかない。


なのに、どこか他人事のような感覚が抜けない。


まるで、VRゴーグル越しに「社畜シミュレーター」をプレイしているような、妙な浮遊感。


「神崎、手止まってるぞ」


「はい、すみません」


徹は慌てて作業に戻るふりをした。


時々、 この世界が「作り物」っぽく見えるというか、妙に薄っぺらく感じる瞬間があるのだ。


疲れてるのかな、と徹は目薬をさした。


沁みる痛みだけが、かろうじてリアルだった。そして、また、ディスプレイに目を向けた。



2. 真っ白な夢


その違和感が決定的なものになったのは、雨の日の帰り道だった。



傘を差して信号待ちをしていた時、スリップしたトラックが突っ込んできた。


キキッ、という嫌な音。

視界がヘッドライトで白く飛ぶ。


(あ、死んだ)


そう思った瞬間、徹が感じたのは痛みじゃなかった。


「あー、やっと脱げる」


という、不謹慎な安堵感だった。


ガチャン、と重たい着ぐるみが外れる感覚。


次の瞬間、徹は「真っ白な場所」にいた。

上も下もない。重さもない。

ふわふわしていて、何のストレスもない。



(うわ、めっちゃ楽……。ここ、どこだ?)


天国かもしれないし、ただの脳内麻薬が見せている夢かもしれない。

でも、徹は直感的に思った。



『ここが、元の場所だ』


あの満員電車も、重たい身体も、全部あっち側の「無理ゲー」の設定だったんだ。



でも、漂っているうちに、急に寂しくなった。

軽すぎるのだ。

手を見ても、輪郭がない。触れても、感触がない。


(あれ? 俺、何も持ってなくないか?)


あんなに苦労して働いたのに、怒られたのに、笑ったのに。

ここには、傷跡ひとつ持ち込めない。


『まだだ。セーブできてない』


誰かの声――いや、自分の心の声がした。


『痛くてもいいから、痕を残せ。……もっと重たい場所へ行け』


強烈な引力が徹を掴んだ。


「ちょ、待っ――」


言い終わる前に、徹の意識は、再び泥のような重力の中へ引きずり込まれていった。




3. 高解像度の気持ち悪さ


「……さん! 神崎さん!」


目が覚めた時、徹は溺れるかと思った。

空気が、重い。濃い。

肺に酸素を入れるだけで、肋骨の筋肉がいちいち軋む。


「わかりますか?」


看護師が顔を近づけてくる。


「ひっ……!」


徹は思わずのけ反った。 怖い。彼女の顔が、怖すぎる。


デジタルに見えるとか、そういうカッコいい話じゃない。


「生々ししすぎる」のだ。


ファンデーションの浮き具合、毛穴の開き、充血した白目の血管。


それらが、4K映像を通り越した異常な解像度で、脳に直接流れ込んでくる。


(うわ、なんだこれ。気持ち悪っ……)


「痛いところはありますか?」


看護師が腕に触れる。

その手の温かさが、熱した鉄板みたいに熱く感じる。


「だ、だいじょう、ぶ……です」


自分の声も変だ。喉の肉が震える感覚が、いちいち気持ち悪い。


医者は


「事故のショックによる感覚過敏でしょう」



と言った。



徹は大人しく頷いたけれど、内心ではパニックだった。



(違う。過敏になったんじゃない。……今までが「鈍感」になるように設定されてたんだ)



フィルターが外れてしまった。


この世界が、物質という重たい粘土で作られた、とんでもなく不自由な場所だということに、気づいてしまった。




4. ズレていくピント


退院して職場に戻ると、その「気持ち悪さ」は加速した。


「神崎、お前休んでる間に仕様変更あったから、これ読んどけよ」


先輩が分厚いファイルを渡してくる。

ズシリ、と重い。


(紙って、こんなに重かったっけ……)


徹は、周りの人間を観察した。


みんな、普通に動いている。

重力に押し潰されそうになりながら、笑顔を作ったり、怒ったりしている。



「おい神崎、聞いてんのか?」



先輩がイラついた声を出した。


徹はハッとして先輩の顔を見た。

怒っている。眉間にシワが寄っている。


でも、徹にはそれが、まるで「プログラムされた反応」に見えてしまった。


(この人、なんでこんなに怒る演技をしてるんだ?)



先輩の瞳の奥で、小さな意識が「また怒っちゃった、疲れるなあ」と泣いているのが見える気がした。


肉体というハードウェアが「怒り」のホルモンを出しているから、それに逆らえずに演じさせられている。



(……うわ、何考えてんだ俺。失礼すぎるだろ。事故の後遺症ってやつか?)



徹は慌てて


「すみません!」


と頭を下げた。



でも、一度感じてしまった違和感は消えない。

自分が、周りの人間と同じ「人間」ではなく、それを観察する「カメラ」になってしまったような疎外感。



みんなが熱中しているゲームのルールが、自分だけ分からなくなってしまったような孤独。


徹はトイレの個室に逃げ込み、自分の顔を鏡で見た。


「お前もだよ。お前もただの肉の塊だ」



そう言い聞かせても、鏡の中の目は、どこか冷めた色でこちらを見返していた。




5. 真夜中の逃走劇


その日の帰り道。


徹は、逃げるようにコンビニで弁当を買って、夜道を歩いていた。


弁当の袋が指に食い込む。痛い。


でも、この痛みだけが、自分がまだ「こっち側の住人」だと教えてくれる気がした。


近道のために、街灯の少ない路地裏に入った時だった。

空気が、急に冷たくなった。



「……う、あ……」


不気味な声が聞こえて、徹は足を止めた。


前方の電柱の下。

白いワンピースを着た女が立っている。

うつむいていて、顔が見えない。


(……やべ。変な人いる)


関わらないようにしよう。徹は足早に通り過ぎようとした。

その時、女が顔を上げた。



顔が、なかった。 いや、ノイズのようにぐしゃぐしゃに歪んでいた。


「ヒッ!?」


徹は情けない悲鳴を上げた。 幽霊だ。


本物だ。 理屈とかどうでもいい、とにかく怖い!


徹は脱兎のごとく駆け出した。

コンビニ袋を振り回しながら、無様に走る。



「なんで俺ばっかり! 事故ったり幽霊見たり!」


後ろから、ズズッ、ズズッ、と何かを引きずるような音が迫ってくる。 速い。


路地を曲がり、公園のフェンスに激突しそうになって、徹は転んだ。


「いったぁ……!」


膝を擦りむいた。ジンジンする痛み。

顔を上げると、目の前に「それ」がいた。


「アア、ア……」


女が覆いかぶさってくる。


徹は腰が抜けて動けない。



(終わった。殺される、呪われる!)



徹はギュッと目を閉じて、手で顔を庇った。 ……でも、いつまで経っても痛みは来なかった。



「……え?」


恐る恐る目を開ける。

女の手が、徹の腕を掴もうとしている。

でも、掴めない。

手が、徹の腕を「すり抜けて」いる。



「……触れ、ない?」


徹は凝視した。

恐怖で心臓がバクバクしているが、冷静な「エンジニアの目」が勝手に解析を始めてしまう。

透けている。質量がない。



彼女は、徹に触れたくても、物理的な干渉ができないのだ。


(なんだ。こいつ、実体がないのか)


その瞬間、恐怖がスッと引いていき、代わりに奇妙な納得感が湧き上がってきた。



彼女は、モンスターじゃない。


あの日見た「白い空間」に帰れなくて、かといって肉体もなくなって、中途半端にこの場所に引っかかっているだけだ。


PCで言えば、フリーズしたまま終了できないウィンドウ。

ただの「エラー」だ。



「アア、クルシイ、クルシイ……」


女の声が、今はただのノイズ音に聞こえる。 苦しんでいる。

ここには居場所がないのに、消えることもできずに。


(……かわいそうに)


徹は、震える手で膝をついたまま、彼女を見上げた。

どうすればいいのか分からない。


お経なんて知らない。

でも、エンジニアとして「固まった画面」をどうするかは知っている。



「……消えろ」


徹は、祈るのではなく、強くイメージした。


タスクマネージャーを開いて、応答しないプログラムを選択して、ボタンを押す感覚。


正規ユーザーである自分の「意識」で、バグを弾き飛ばす。



「強制終了……ッ!」


叫んだ瞬間。


ブツン、と音がした。 女の姿が、テレビの電源を切ったように、一瞬で消失した。


あとに残ったのは、静かな公園と、自分の荒い息遣いだけ。


「……は、はは」


徹はへたり込んだ。


コンビニ袋の中のビールが転がって、虚しい音を立てた。


「マジかよ……消えちゃったよ」


膝の擦り傷が痛む。

その痛みが、妙に愛おしかった。 幽霊には質量がない。


でも、俺にはある。

俺はまだ、この重たくて面倒くさい世界に、確かに「ログイン」しているんだ。



徹は夜空を見上げた。

曇り空の向こうに、巨大なシステムが見下ろしている気がした。


「……バグだらけじゃねーか、この世界」



徹はよろりと立ち上がり、泥だらけのスーツを払った。 明日も会社だ。


先輩に怒られるし、満員電車は息苦しい。

でも、とりあえずビールは美味いだろう。


彼は重たい足取りで、再び歩き出した。



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