同じ部屋にいて、話さないという選択

 会場に入った瞬間、遥は分かった。


 空気が、違う。


 小さなギャラリー。

 白い壁。

 柔らかい照明。


 人は多くない。

 だからこそ、視線が散らばらない。


 ——いる。


 それは、探した結果ではなかった。

 身体が、勝手に反応した。


 部屋の奥。

 黒に近いネイビーのコートの前に、紬は立っていた。


 以前より、少しだけ痩せたように見える。

 髪も、短くなっている。


 でも、立ち姿は変わらない。


 遥は、足を止めた。


 近づけば、声をかけられる距離。

 でも、近づかない。


 ——今日は、見るだけ。


 それが、自分との約束だった。


 一方、紬は、説明を求められて振り向いた瞬間、遥を見つけた。


 一瞬、思考が止まる。


 ——来た。


 来ないと思っていた。

 来ないよう、願っていた。


 それなのに。


 遥は、少し離れた場所で、服を見ている。

 こちらを見ていない。


 それが、救いであり、

 同時に、胸に刺さる。


「……こちらは」


 紬は、質問に答えながら、言葉を選ぶのが遅れる。


 集中できていないのは、明らかだった。


 遥は、一着ずつ、ゆっくり見て回る。


 線。

 縫い目。

 布の落ち方。


 どれも、知っている。

 でも、知らない。


 ——前より、強い。


 それが、正直な感想だった。


 守るための服ではなく、

 進むための服。


 それが、少しだけ、寂しい。


 視線が、自然に合う。


 一瞬。


 ほんの、一瞬だけ。


 紬の目が、わずかに見開かれる。

 遥は、すぐに逸らした。


 逃げたわけじゃない。

 約束を守っただけだ。


 紬は、深く息を吸う。


 話しかけない。

 それが、遥の選択だと、分かる。


 ——私も、選ばなければ。


 展示の説明が一区切りついたとき、

 遥は、出口に向かった。


 十分だ。

 これ以上いたら、何かを壊してしまう。


 扉に手をかけた、その瞬間。


「……遥さん」


 名前を呼ばれる。


 身体が、固まる。


 振り向くと、紬が立っていた。

 数歩の距離。


「……来てくれて」


 言葉が、途切れる。


「ありがとうございます」


 それだけ。


 仕事の言葉。

 でも、声が、少し震えている。


「……こちらこそ」


 遥も、最低限の言葉を返す。


「勉強になりました」


 本心だ。

 でも、それだけじゃない。


 沈黙。


 周囲の人の声が、遠くなる。


「……その」


 紬が、何か言いかけて、止める。


 言わない。

 今は。


「……お元気そうで」


 代わりに、そう言った。


「はい」


 遥は、うなずく。


「紬さんも」


 嘘ではない。

 でも、全部でもない。


 それ以上、言葉は続かなかった。


 沈黙は、失敗ではない。

 今の二人にとっては、最善だった。


「……では」


 遥は、軽く頭を下げる。


「失礼します」


 紬も、同じように頭を下げた。


 それだけで、再会は終わった。


 遥が会場を出たあと、

 胸の奥が、ゆっくりと熱を持ち始める。


 痛みではない。

 後悔でもない。


 ——まだ、終わっていない。


 その感覚だけが、残った。


 一方、紬は、その場から動けずにいた。


 短い会話。

 視線。

 距離。


 それだけで、十分だった。


 ——生きている。


 遥は、生きて、自分の世界を歩いている。


 それを見られただけで、

 胸が、少し軽くなった。


 同時に、思う。


 もう一度、

 ちゃんと話したい。


 仕事としてではなく。

 過去としてでもなく。


 今の自分として。


 展示は、その日も無事に終わった。


 誰も、大きな事件には気づかない。

 でも、二人にとっては、確かに節目だった。


 会わないまま終わった時間が、

 ようやく、

 「会える過去」になった。


 同じ場所に戻るのではない。

 違う場所に立ったまま、

 それでも、手を伸ばすかどうか。


 それを、決める時間が始まる。

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