会わないまま、決まっていくこと

遥は、その週、アトリエに行かなかった。


 行こうと思えば、行けた。

 放課後、足は何度も自然にあの道を向いた。


 でも、最後の角を曲がる前で、必ず止まる。


 ——行って、何を話す?


 展示の話。

 進路の話。

 それとも、何も変わらないふり?


 どれも、違う気がした。


 学校では、担任から再度声をかけられた。


「説明会、どうだった?」


「……考え中です」


「期限、近いからね」


 “期限”。

 その言葉が、現実を突きつける。


 選ばなければ、いけない。


 一方で、紬は、展示の準備に追われていた。

 杉原からは、毎日のように連絡が来る。


『進捗どう?』

『サイズ展開、考えられる?』

『量産の話も視野に入れて』


 母の名前を出されなくなった代わりに、

 現実的な数字と締切が増えた。


 遥に、連絡しようと思ったことは、何度もある。


 でも、指が動かない。


 ——今、話すと、何かを奪ってしまう。


 その考えが、紬を縛っていた。


 展示前日。

 アトリエは、久しぶりに人の気配で満ちていた。


 杉原と、数人の関係者。

 試着用のトルソー。

 飛び交う専門用語。


「……いいわ」


 杉原が言う。


「お母さんの頃より、線が柔らかい」


 褒め言葉だった。


「でも、これは売れる」


 その一言で、空気が決まる。


 売れる。

 それが、正解。


 夜、皆が帰ったあと、紬は一人で座り込んだ。


 床に落ちた糸くず。

 散らばったメモ。


 遥が、ここにいない。


 それを、初めて「不在」として実感する。


「……連絡、すればよかった」


 声に出しても、遅い。


 展示当日。

 会場は、思ったよりも人が多かった。


 視線。

 評価。

 期待。


 紬は、必要最低限の受け答えをしながら、ずっと入り口を気にしていた。


 ——来ない。


 分かっている。

 分かっているのに、期待してしまう。


 一方、遥は、学校にいた。

 展示があることは、知っている。


 行こうと思えば、行けた。

 制服のままでも。


 でも。


 ——呼ばれていない。


 それが、すべてだった。


 放課後、進路希望調査票を提出する。


 第一希望欄に、短大の名前を書く。

 ペンが、少し震えた。


 それは、逃げではない。

 自分で選んだ道だ。


 でも、その選択に、紬の名前は書けない。


 展示は、成功だった。


『次、いつ出せる?』

『量産、いけると思う』


 杉原の声が、少し弾んでいる。


「……ありがとうございます」


 紬は、そう答えながら、心のどこかが冷えていくのを感じていた。


 帰り道、スマートフォンを見る。


 遥からの連絡は、ない。

 自分からも、していない。


 それが、もう「関係」を表している気がした。


 数日後、ポストに一通の封筒が入っていた。


 短大からの、仮内定通知。


 宛名は、遥。


 紬は、それを見て、しばらく動けなかった。


 ——選ばれた。


 遥は、前に進んでいる。


 嬉しいはずなのに、胸が痛む。


 夜、紬は、母のノートをもう一度開いた。

 最後のページを、読み返す。


『服は、人を外に連れ出すもの』

『でも、帰る場所がなければ、ただの逃避になる』


 帰る場所。


 私は、遥の帰る場所になれていただろうか。


 その頃、遥は、自室で制服を脱ぎながら、思っていた。


 あのアトリエは、

 もう、自分の居場所ではない。


 そう思わなければ、前に進めない。


 涙は出なかった。

 もう、流しきった後だった。


 二人は、まだ別れを口にしていない。

 連絡を絶ったわけでもない。


 でも。


 会わないまま、

 話さないまま、

 選び続けた結果。


 関係は、

 静かに「終わった形」になっていた。


 そして、この断絶は、

 後半で必ず、

 二人をもう一度引き合わせるための、

 深い、深い溝になる。

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