あなたのいない場所で、名前を呼ぶ

 紬さんが扉を閉めたあとも、私はしばらくその場に立っていた。

 アトリエの前の道は、いつも通りだった。車が通り、誰かが歩いていて、空は少し曇っている。


 でも、胸の奥だけが、落ち着かなかった。


 ——楽しかったです。


 あの言葉を聞いた瞬間の、紬さんの表情。

 ほんの少しだけ、力が抜けた目元。

 それが頭から離れない。


 私は、帰り道を歩きながら、何度も足を止めそうになった。

 引き返して、もう一度インターホンを押したくなる衝動を、必死で抑える。


 それは、今まで感じたことのない種類の気持ちだった。


 学校に着くと、いつもの日常が待っていた。

 友達の声。チャイム。教室のざわめき。


「遥、その服いいね」


 クラスメイトが言う。


「どこで買ったの?」


「……内緒」


 そう答えた自分に、少し驚いた。

 隠したいわけじゃない。でも、簡単に言葉にしていい気がしなかった。


 それは、私だけの場所と、私だけの人に繋がっている服だから。


 授業中、ノートを取りながら、私は何度も紬さんのことを思い出していた。

 展示会で、少しだけ前に出てくれた背中。

 外の空気に怯えながら、それでも歩こうとした横顔。


 ——支えますよ。


 あのとき、私は自然にそう言った。

 でも、それは「優しさ」だっただろうか。


 違う。


 あの人が倒れるところを、想像するだけで、胸が苦しくなった。

 それは、放っておけない、という気持ちより、もっと近い。


 昼休み、私は屋上に出た。

 風が強く、ワンピースの裾が揺れる。


 この服は、紬さんが作った。

 私の身体を測り、触れ、迷い、考えて。


 それを思い出すだけで、頬が熱くなる。


「……好き、なのかな」


 誰もいない屋上で、小さく呟く。


 その言葉は、否定されなかった。

 胸の奥に、すっと収まる。


 好きだ。


 それは、服のことじゃない。

 紬さんの、声の低さ。

 言葉を選ぶ沈黙。

 自分の世界を守るために、必死に閉じてきた扉。


 放課後、私は寄り道をせず、まっすぐアトリエに向かった。

 理由が欲しかった。でも、もう必要ない。


 インターホンを押す。


「……どうぞ」


 いつもの声。

 それだけで、心臓が跳ねる。


「お邪魔します」


 アトリエの中は、昼間より少し暗い。

 ミシンの音が、一定のリズムで鳴っている。


「……今日は、早いですね」


 紬さんは、私を見て言った。


「会いたくなったので」


 口に出してから、自分で驚く。

 でも、取り消さなかった。


 紬さんの手が、止まる。


「……仕事は」


「後でやります」


 逃げ道を、塞ぐ言い方。


 少しの沈黙。

 ミシンの音が、完全に止まる。


「……遥さん」


 名前を呼ばれる。

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「今日、外に出て」


 紬さんは、視線を落としたまま言う。


「私、変わってしまった気がします」


 その言葉が、怖かった。

 変わることは、紬さんにとって、きっと痛みを伴う。


「……悪い変化ですか」


「わかりません」


 正直な答え。


「でも」


 ゆっくり、顔を上げる。


「あなたが、いない場所が、少し怖い」


 それは、もう告白に近かった。


 私は、一歩近づく。

 触れない距離。

 でも、逃げられない距離。


「それなら」


 静かに言う。


「一緒に、変わりましょう」


 紬さんの目が、揺れる。


「……私は」


 言葉が、震えている。


「誰かを、好きになる資格があるのか、分かりません」


 その瞬間、私は確信した。


 この人は、もう私を好きだ。

 そして、自分を許せていないだけだ。


「資格なんて」


 首を振る。


「いらないです」


 ワンピースの裾を、そっとつまむ。


「この服を作った人が、そんなこと言うなら」


 顔を上げて、まっすぐ見る。


「私は、困ります」


 沈黙。

 長い、長い沈黙。


 紬さんが、深く息を吸う。


「……今日は」


 まだ、逃げようとしている。


「もう少し、ここにいてもいいですか」


 私は、笑った。


「はい」


 即答だった。


 恋は、始まってしまった。

 もう、引き返せない。


 でも、それでいい。


 私は、この人と、

 外に出て、戻ってきたい。


 服と同じように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る