名前を呼ぶ、服を着る

試作品が完成したのは、採寸から四日後だった。

 白に近い生成りのワンピース。装飾はほとんどない。布の落ち方と、動いたときの余白だけに神経を使った一着。


 母なら、もっと何かを足したかもしれない。

 でもこれは、私の判断だった。


 インターホンが鳴る。


「……どうぞ」


 扉の向こうから、いつもの足音。


「こんにちは」


 今日は少し、声が明るい。


「……あの」


 私は、作業台の前から動かないまま言った。


「試作品、できました」


 一瞬の沈黙。

 それから、弾んだ声。


「本当ですか」


 私は、頷いた。


「着て、みますか」


 彼女は迷わなかった。


「はい」


 採寸スペースに案内する。

 ハンガーに掛かったワンピースを、彼女が見つめる。


「綺麗……」


 その言葉が、胸の奥にすとんと落ちる。


「着替えますね」


「……はい」


 パーティションの向こうで、制服を脱ぐ音がする。

 私は視線を逸らしたまま、鏡の前に立った。


「……できました」


 振り向く。


 彼女は、ワンピースを着ていた。

 丈は膝下。肩は落ちすぎず、首元も開きすぎない。

 何より、動いたときの布の揺れが、思った通りだった。


「……似合ってます」


 それ以上の言葉が、出てこない。


「ありがとうございます」


 彼女は、少し照れたように笑った。


「なんだか、違う人みたいですね」


「……そうですか」


「はい。いつもの私じゃない感じがします」


 鏡の中の彼女は、確かに少しだけ遠い。

 でも、それが嫌じゃなかった。


 私は、無意識に一歩近づいていた。


「丈、確認します」


 仕事の声を装う。


 裾に手を伸ばし、少しだけ布をつまむ。

 彼女の脚の熱が、布越しに伝わる。


「……大丈夫です」


「でも、歩いたとき」


 一歩、歩いてもらう。

 布が揺れる。想定通り。


「……完璧です」


 その言葉は、嘘じゃなかった。


 しばらく、二人とも黙って鏡を見ていた。


「あの」


 彼女が、口を開く。


「名前、聞いてもいいですか」


 心臓が、強く打った。


「……私の?」


「はい」


 今まで、呼ばれなかった。

 呼ばせなかった。


「……紬(つむぎ)です」


 母がつけた名前。

 布を紡ぐように生きてほしい、と。


「紬さん」


 初めて、私の名前が、彼女の口から出た。


 それだけで、世界の輪郭が少し変わる。


「私は、遥(はるか)です」


 彼女はそう言って、微笑んだ。


「遥……」


 口の中で転がす。

 遠くまで届きそうな名前。


「紬さんが作った服、好きです」


 まっすぐな言葉。


「……ありがとう」


 それしか言えなかった。


 遥は、ワンピースの裾を指でつまんだ。


「これ、私が着ていいんですか」


「……本当は」


 一瞬、迷う。


「売るつもりは、ありませんでした」


「じゃあ」


「遥さんに、着てほしいと思って作りました」


 言ってしまった。


 仕事の言い訳は、もう通じない。


 遥は、少し驚いた顔をして、それから、ゆっくり頷いた。


「大事にします」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 母の服は、誰かのために作っていた。

 私は、今、初めて「この人のために」と思った。


 遥が着替えている間、私は椅子に座ったまま動けなかった。


 戻ってきた彼女は、また制服姿だった。


「また、着てきてもいいですか」


「……学校に?」


「はい」


 一瞬、母の顔が浮かぶ。

 ブランドの名前。評判。外の世界。


「……好きにしてください」


 遥は、嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、私は気づく。


 この服は、外に出る。

 遥と一緒に。


 扉が閉まったあと、私は作業台に向かった。


 新しい型紙を、引く。


 母のためじゃない。

 ブランドのためでもない。


 遥の名前を、心の中で呼びながら。


 私は、次の服を作り始めた。

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