縫い目の向こうで、あなたは息をする

高町 希

午後三時のインターホン

ミシンの音だけが、部屋の空気を縫い続けていた。

 窓は閉め切られている。昼か夜かも曖昧な、白い蛍光灯の下で、私は布に線を引き、切り、また縫う。その繰り返しを何年も続けてきた。


 ——在庫整理・発送補助。短期。

 募集文に書いたのは、それだけだった。


 本当は誰にも来てほしくなかった。

 でも、ひとりではもう限界だった。母のブランドを守るには、手が足りなさすぎた。


 インターホンが鳴ったのは、午後三時。

 約束の時間ぴったりだった。


「……どうぞ」


 インターホン越しにそう言ってから、私は扉を開けなかった。代わりに、作業台の奥から声だけを投げる。足音が控えめに近づいてくる。


「こんにちは。アルバイトの件で来ました」


 若い声。少し緊張している。

 それだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「……そこにある箱、見えますか。まずは中の服を種類ごとに分けてください。触るときは、必ず手袋を」


「はい」


 素直な返事。

 紙袋が擦れる音、箱のふたが開く音。

 私は背中を向けたまま、ミシンを動かし続けた。


 彼女は、普通だった。

 声も、動きも、服装も。

 母のブランドを知っているわけでもなさそうで、質問もしてこない。ただ、言われた通りに服を扱っている。


 それが、少しだけ安心だった。


「これは……同じ型ですか?」


 不意に、声がかかる。


「……はい。色違いです」


「わかりました」


 それだけ。

 なのに、なぜかそのやり取りが、私の胸に残った。


 作業は淡々と進んだ。

 彼女は丁寧で、服を落としたり、雑に扱ったりしない。ハンガーにかけるときも、必ず肩のラインを整えてから掛ける。


「……服、好きなんですか」


 気づいたら、私の方から聞いていた。


「え? あ、好き……だと思います。でも、詳しいわけじゃなくて」


 困ったような笑い声。


「ただ、着ると気分が変わるのが、いいなって」


 その言葉に、指が止まった。

 母も、同じことを言っていた。


 ——服はね、人生の一日を少しだけ支えてくれるの。


 ミシンの音が、途切れる。


「……学校は?」


「高校です」


 即答だった。

 当たり前のように、まっすぐな答え。


「放課後に来てます」


「そう……」


 それ以上、言葉が続かなかった。

 高校。放課後。

 私が途中で捨てた時間。


 沈黙を破ったのは、彼女だった。


「ここ、あったかいですね」


「え?」


「服がたくさんあるからかな。変な意味じゃなくて」


 慌てたように言い足す。


「外、寒くて。でもここ、変な感じです。落ち着くというか」


 私は、何も答えられなかった。

 この部屋は、私にとって棺みたいな場所だったから。


 でも、彼女はここを「あったかい」と言った。


「……休憩にします」


 気づけば、そう告げていた。

 奥の棚から、未開封のペットボトルを一本取り出し、作業台の端に置く。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 キャップを開ける音。

 少しして、彼女が言った。


「服、綺麗ですね」


 私は、ようやく振り返った。


 初めて、彼女の顔を見た。

 黒髪で、特別美人というわけじゃない。でも、目がまっすぐで、よく笑いそうな口元をしている。


 その視線は、私ではなく、服に向いていた。


「一枚一枚、大事にされてる感じがします」


 胸の奥が、静かに痛んだ。


「……母が作ったんです」


 そう言った瞬間、声が震えた。


「亡くなりました」


 言うつもりじゃなかった。

 でも、止まらなかった。


「だから、これは……私が、守らないと」


 彼女は、すぐには何も言わなかった。

 ただ、服から手を離し、こちらを見た。


「……じゃあ」


 ゆっくりと、言葉を選ぶように。


「今、ここにある服は」


 彼女は、少しだけ微笑んだ。


「あなたが守ってきたものなんですね」


 その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、ほどけた気がした。


 ミシンの音が、また動き出す。

 彼女は作業に戻る。


 私は、縫いながら思った。


 ——この子が帰ったら、また静かになる。

 それでいい。そうあるべきだ。


 それなのに。


 彼女の足音や、服を扱う気配が、消えてしまうのが、少しだけ惜しいと思ってしまった。

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