1-2

 もう仲直りしてもいいかな?そんなことを思い始めていると、玄関の方から物音がした。黒崎が帰宅したようだ。いつもなら玄関へ迎えに行くところだけれど、自分の方から折れるのは癪に障るから、行かなかった。


 ソファーで寝息を立てていた我が家の犬のアントワネットが起き上がり、黒崎のことを迎えに行った。すると、黒崎の声が聞こえてきた。


「……アン、ただいま。いい子にしていたか?夏樹はどこだ?」


 キッチンへ足音が近づいて来た。それに気が付かないふりをして、夜食の準備を続けた。そして、そばのカウンターから名前を呼ぶ声がした。俺はほうれん草のお浸しを小鉢に盛りつけながら、振り向かずに返事をした。


「……夏樹。ただいま」

「おかえり」

「……まだ機嫌が悪いのか?」

「べつに?」

「……そうか」


 黒崎がため息をついた。そして、ふわっと彼の匂いがした後、背後から両腕が回された。首筋に顔を埋められている。


「夏樹。そろそろ許してくれ」

「何のこと?」

「そう苛めるな。豆腐のことではすまなかった。お前が選ぶものが不味いわけじゃない」

「ふん。いっぱい文句を言ったくせに」

「悪かった……」


 今回の喧嘩の内容は、豆腐の値段だった。黒崎が選んだものは、1パック434円。我が家が普段買っているのは、98円のものだ。十分に美味しい。それでも黒崎は譲らなくて、スーパーの中で言い合いになった。


「……もう2日も、まともに口をきいてもらえていない。どうすれば許してもらえるんだ?」

「話しているじゃん」

「今だけだろう。出勤する時は無視をされた」

「見送ったよ?キスはしなかったけど」

「何でも我儘を聞いてやる。こっちを向いてくれ」

「ふーん、何でも?だったら、とっておきの6文字言葉を言ってよ」


 それは『あいしている』というものだ。滅多に言ってもらえないから、こういう時を利用したい。


「黒崎さーん。言うしかないよ?」

「……言わない」

「ええー?」

「行動に出したいから、別の我儘にしろ」

「ふうん……」


 不覚にも胸がキュンとした。その言葉のとおり、行動に出している人だ。そういう人だから好きになったし、今も一緒にいる。


 だんだん心の雪解けが始まった。そんな俺のことに気づいたようだ。背後から頬へキスをされた。


「……色が白いから豆腐に見える」

「頬っぺたに噛みつくなよっ」

「カウンターの上を見てみろ」

「だったら離してよ」

「はいはい」


 黒崎の唇と手が離れたから、振り向いてカウンターの上を見た。そこには、洋菓子店のロゴマークが入った箱が置かれていた。先月、買ってきてもらって美味しかった店のものだ。


「わざわざ買ってきてくれたんだ?会社から遠いだろ?」

「今夜の飲み会の店が近くだった。持ち運びをするから生菓子は買っていない。開けてみろ」

「うんっ。ありがとう」


 さっそく箱を開けると、動物のイラストのアイシングが見えた。マカロンの上に描かれたものだ。


「これ、毎日15セットのみの限定じゃん!予約でいっぱいだよ?」

「そうだったのか?」


 素知らぬふりをしているが、こっそり予約をしたのは分かっている。俺が美味しいといった物や気に入った物を覚えてくれている。さり気なくお土産にすることが多いし、休みの日に店に連れて行ってもらえている。


「……物に釣られたわけじゃないけど。もう降参したよ」

「そうか。それならお前の方からキスをしてくれ」

「いいよ」


 黒崎へキスをすると、背中に腕が回されて抱き寄せられた。そして、耳元で熱い息が触れた後、囁くように名前を呼ばれた後、さらに腕の力が込められて逃げ出せなくなった。


「ベッドに連れて行きたい」

「夜食を食べてよ」

「こっちがいい」

「だったら枕を抱いて寝ることになるよ?」

「分かった。先に食べる。明日は休みだろう?」

「もう……っ」

「分かった、ここまでにしておく」

「スケベじじい!」

「やっとそのセリフが聞けた」


 強引に抱き寄せられて、こめかみにキスをされた。これでもう許したことになる。黒崎の粘り勝ちだ。


 テーブルへ夜食を運んでいる間、黒崎が豪快にスーツを脱いだ。それを拾い集めて、クリーニング行きのランドリーバスケットへ放り込んだ。世話のかかる人だ。


 機嫌を取るのが上手な黒崎。うまく乗せられる俺。お互いのバランスが、公園のシーソーのような関係だ。俺は鼻歌を歌いながら、ダイニングテーブルに料理を並べた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る