第11話

「供物をお持ちしました。どうかそのお姿を表してください。……巳津多様! 供物を!」


 呼びかけの声が奇妙に反響して聞こえる。琢磨は、そこに子守唄のような安らぎを感じる自分に気づいた。甘い香りが脳に染み込み、溶けてはならないものが溶かされているかのようだった。


「どこだ!」


 琢磨は叫んだ。焦りを表さなければ安らぎに呑まれてしまいそうで、それがたまらなく恐ろしかった。走り出したのも当てを見つけたからではなかった。だがそれが功を奏した。肩に鋭い痛みが走り、足が勝手に止まった。


「!? 痛ッ……!」


 右肩の切り傷を抑え、彼は柱を見上げた。いかなる理由によるものか、そこには刃物のような傷跡があり、いくつもの大ぶりな棘が出来ていた。その内の一つが肩を切った――


「……!」


 瞬間、琢磨の脳裏に破滅的なアイデアが浮かぶ。柱は垂直で、しがみついても登れない。だが、これならば。この棘を掴んでいけば――彼は頭を振ろうとした。痛みが現実に立ち返らせた。もう一刻の猶予もない。

 

「……っ!」


 琢磨は棘を掴んだ。手のひらに鋭い痛みが走り、反射的に手が離れそうになった。構わない。次の棘へ。それは脆く、弱く、握る度にみしりと音を立てた。だが最悪の事態を思い浮かべる余裕などなかった。


 2つ、3つ、4つ。登る度に手のひらは裂け、露出した傷を新たな棘が切り裂く。泣き叫びたくなるほどの激痛に襲われ、指先までも赤く染めながらも、琢磨は登り続けた。


 振り上げた手の先にあの板が触れた。その瞬間、天井越しに歓喜の声が聞こえた。


「巳津多様! ……いらしていただけたのですね!」


(来たのか!? もう!?)


 それはほんの一瞬の恐怖。だがそれだけで、全てを奪い去るには十分だった。右足が滑り、体が重力に引かれた。


(あ……)


 鈍化した時間の中、絶望が琢磨を呑み込もうとした。落ちる。止まられない。突起を掴んでも一瞬でへし折れる。落ちる。死ぬ。死ぬのか? 供物? 死ねるのか? 俺は。三咲。……三咲!


「あぐぁっ!」


 琢磨は痛みに絶叫した。彼の右手。そこには大ぶりな突起が深々と突き刺さり、その指先は、震えながらも柱を掴んでいた。


「ふぅっ……ふぅっ……!」


 あまりの激痛に涙が溢れ、歯がガチガチと鳴っていた。理性は構わず、その手をより柱側へと押し込んだ。手のひらが裂けないギリギリの深さまで。より強く柱を掴むために。


「!? ……何をしている!」


 祐一は咄嗟に振り返り、落とし穴の残骸を無造作に払った。痛みに顔を歪みきらせた琢磨と目が合った。祐一は足を振り上げた。


(え)


 琢磨の視界から不意に天井が消えた。代わりに現れたのは誰かの靴底だった。落ちる――落とされる。そう認識した瞬間、爆発的な衝動が彼を突き動かした。


「うあああああっ!」


 琢磨は左腕を振り上げた。その顔を祐一の足が躙った。首が折れそうな痛みすらも、琢磨は感じていなかった。敵の足を掴む。その一心だった。


「なっ」


 確実に落とす。その一心で体重を込めた。それがどちらにも仇となった。琢磨の右手に2人分の全体重がのしかかった。中指と薬指の間から大棘が突き抜け、真っ二つに裂けた。


「「あああああっ!」」


 落ちる。琢磨も、祐一も。琢磨は背中から叩きつけられ、祐一は顔面を強打した。アドレナリンで吹き飛ばし切れないほどの激痛が二人を襲った。


「あぐっ、ぁあ、ああ!」


 琢磨は地べたに身を捩らせ、裂けた右手を見ていた。反射的に掴んだ・・・大棘が親指と人差し指の辺りを切り裂きながらも、握りしめられていた。


「がああああっ!」


 怒声に竦む間もなく、視点が強制的に引き上げられる。憤怒を剥き出しにした祐一の顔。それが消えた。激痛。殴られた。そう認識した時には首を締め上げられていた。


「ぇっ、ぐっ……」


「動くな! 供物が! この……ぁぐっ!?」


 手が離れた。琢磨は後頭部に痛みが走るのを感じた。酸素が戻り、視界が復帰する。祐一は左目を押さえ、蹲っていた。無我夢中で振るった右腕。握っていた大棘が、祐一の目を突き刺したのだ。


「お前はァァァッ!」


「ぁあ、あああああッ!」


 琢磨は四つん這いのまま逃げた。身を起こす余裕などなかった。彼はひときわ大きな段ボールの側に逃げ込み、必死に体を丸くした。


「……どこだ! 逃げるなァッ!」


(……は……はっ……!)


 必死に声を抑える。口元の血が、吸い込んだホコリと絡み合い、口の中を血の味で満たしていた。


 絶望が心を覆っていた。上には巳津多様がいる。ここでは祐一が、悪魔の如き形相で自分を探し回っている。左の失明と暗闇。それが障害となっているが、狭い地下室を探し尽くすには、きっとそう時間は掛からない。


(死ぬのか? 俺、消えるのか……?)


 頭の中をぐちゃぐちゃな物事が駆け巡る。このまま捕まって供物にされるのか。供物って何だ。神のみもとに? 消える? 残るのか? 三咲みたいに? 三咲? ……三咲!


「巳津多様!」


 反対側から聞こえた声に、祐一は歓喜した。


「そこかァ!」


 琢磨はもはや隠れなかった。ただ上階を見上げ、叫んだ。


「俺は、山の外から……持ってきました!」


 姿の見えぬ神へと。


「……供物を!」


「……ッ!」


 瞬間、祐一は敵の狙いを悟った。全力で駆け出し、その首を抑えにかかった。


「だから、返してくれ! 三咲を! 返しッ……!」


「あああああッ!」


 琢磨の首を何かが覆った。視界が吹き飛んだ。脳への酸素が絶たれ、口から泡が溢れた。……だが、それだけだった。


 事態を分析する間もなく視界が復帰する。怒りに満ちた形相。……それが、離れていく。


(あ……)


 息が。吸えている。祐一が倒れる音がした。琢磨は呆然と立ち上がり、見下ろした。無数の蛇が、まるで死体に集う虫の群れのごとく、祐一の胸から下を覆い尽くしていた。


「ぁ……」


 祐一は虚空に手を伸ばした。その腕までをも蛇が覆った。琢磨は後ずさった。祐一の喉も、顔も、その全てが覆い尽くされた。


「あお、い……」


「え……?」


「葵……そこに、い……」


 漏れ聞こえた言葉が、途切れた。蛇たちは祐一ごと床に染み込んだ。後には何も、痕跡すらも残されていなかった。


「……」


 琢磨は放心していた。……何が起きた? 麻痺していた思考が余裕を取り戻し始める。祐一は。……供物になったのか。つまり、巳津多様のもとに。そして。なら……


「ごほっ!」


 上から強く咳き込む声が聞こえた。薄れる意識の中、琢磨はそれにひどく安らぎを覚えた。聞き慣れた女の声。


「なにこれ。……ここ、どこ……」


「みさ、き……」


「琢磨!? ……どこなのここ。下にいるの!?」


 安堵した瞬間、甘い香りが全身を包みこんだ。琢磨はもはや、意識を保てなかった。

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