夜の街
スタジオを一歩出ると、夜の闇がすっかり深まっていた。
五月の夜風はまだ少しだけ肌を刺す。僕はジャケットの襟を合わせるように前を閉じて、駅へと続く道に足を向けた。
スマホを取り出して、時間を確認する。
二十一時過ぎ。終電までは余裕がある。
ふと、腹が鳴った。
そういえば、今日はまともに食事をしていない。朝はコンビニのおにぎり、昼は食べる暇がなかった。
近くのラーメン屋に入ろうかと考えていたとき、後ろから声をかけられた。
「あれ?」
振り返った先にいたのは、深く被った帽子に伊達メガネ、そしてマスク。
不審者一歩手前の完全武装だ。
「佐藤くん、こんなところに」
姿形は判別不能。だが、その声は聞き間違えようがない。
収録中、ずっとミキサー越しに聴いていた、あの華やかな声だ。
嘘だろ。なぜ、ここに小川さんがいる。
「……小川さん? 帰ったんじゃ」
「うん、帰ろうとしたんだけど、マネージャーの笹本さんに連絡したら、迎えが遅れるって」
「そうですか」
「だから、ちょっとその辺ぶらぶらしてたの」
彼女は僕の隣に並んで歩き始めた。
自然な動作だった。当然のように。
「佐藤くん、これから帰り?」
「はい」
「ご飯は?」
「まだです」
「じゃあさ、一緒に食べよ」
また、その話か。
「小川さん、さっきも言いましたけど」
「わかってるわかってる。でも、これは偶然だから」
「偶然でも」
「ねえ、一人でご飯食べるの寂しくない?」
彼女が、僕の顔を覗き込んでくる。
なんでこんなこの人はガードが緩いんだ。
「私は寂しいよ。一人でご飯、嫌い」
「……」
「だから、付き合ってよ。ね?」
断る理由を探したが、見つからなかった。
理由なら、それこそ山のようにあった。
構成作家と担当番組のパーソナリティが、夜に二人きりで歩いている。その事実だけで、業界的にはスキャンダルの火種になりかねない。
彼女の完璧な変装を信じるか、あるいは週刊誌の目を恐れるか。 そんなリスク管理を嘲笑うように、彼女の無邪気な瞳が僕を捉えて離さない。
断れねえかー。
偶然会った。お互い腹が減っている。一緒に食べるのは自然な流れだ。これを断ったら、小川さんは……。
そう思いながら、彼女が暴れてて駄々をこねる姿を頭に思い浮かべた。
それこそ面倒臭いことなる。
「……わかりました。でも、さっと食べて帰りますよ」
「やったー!」
小川さんが、嬉しそうに跳ねた。
こうして、僕は彼女と夜の街を歩くことになってしまった。
「ねえ、何食べたい?」
「何でもいいです」
「えー、それ一番困るやつー」
「じゃあ、小川さんが決めてください」
「うーん、そうだなあ」
彼女は顎に手を当てて、考え込んだ。
演じる役でも、マイクの前でも見せないような年相応の仕草。
その仕草が、なんだか可愛らしくて、僕は咄嗟に視線を逸らした。
「あ、あそこにしよ」
小川さんが指差したのは、小さな定食屋。
昔ながらの、庶民的な店。売れっ子声優のイメージとは少し違う気がした。
「いいんですか? もっとオシャレな店とか」
「いいのいいの。私、こういう店好きなんだ」
店に入ると、カウンター席しかない狭い空間だった。
客は他に二人だけ。サラリーマン風の男性と、一人で本を読んでいる女性。
僕たちは隅の席に並んで座った。
「すみませーん、生姜焼き定食一つ」
小川さんが注文する。
「僕も同じので」
「あ、一緒だね。嬉しい」
何が嬉しいのかわからない。
ただ注文を考えるのが面倒だっただけ。
でも、彼女は本当に嬉しそうだった。
「ねえ、佐藤くん」
「はい」
「こうやって一緒にご飯食べるの、初めてだね」
「……そうですね」
「なんか、緊張する」
そういう彼女だが、緊張しているようには見えない。
でも、言われてみれば、彼女の声がいつもより少し高い気がする。
「私ね、佐藤くんとこういうの、ずっとしたかったんだ」
彼女がそう言ったとき、定食が運ばれてきた。
僕は、彼女の言葉を無視して「いただきます」と言って、すぐに箸を取った。
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