選ばれなかった声
鳴貍
第一章 予兆 1
透の指がキーボードの上で止まった。
画面に映し出された数字の羅列——四半期の売上データ、顧客の購買パターン、在庫回転率。いつもなら、この膨大なデータの海から、誰も気づいていない「傾向」が浮かび上がってくる。数値の背後に流れる因果の糸が、まるで立体的な地図のように見えてくるのだ。それが透の強みだった。
だが、今日は違った。
「……おかしい」
透は眉をひそめた。データそのものに誤りはない。入力ミスも、計算違いもない。それなのに、何か——言葉にできない違和感が、喉の奥に引っかかった小骨のように、彼を苛立たせていた。
数字が、ズレている。
いや、正確には「ズレているように感じる」。論理的に説明できない。ただ、直感が警告を発している。この契約、何かが間違っている——。
「倉田さん、会議の時間です」
後輩の声に、透ははっと我に返った。時計を見る。十四時五十八分。新規取引先との打ち合わせまであと二分。透は資料を閉じ、ノートPCを抱えて立ち上がった。
会議室に入ると、すでに相手企業の担当者が着席していた。四十代半ばの男性、黒縁眼鏡の奥の目は鋭い。営業部長の肩書きを持つ、やり手らしい。
「お待たせしました。本日はお忙しいところ、ありがとうございます」
透の上司である課長が、慣れた調子で挨拶を始めた。透は席に着き、ノートPCを開く。画面には先ほどまで見ていたデータが表示されている。
会議は順調に進んだ。相手企業の要望、こちらの提案、契約条件の擦り合わせ。透は黙ってメモを取りながら、データを頭の中で再構成していた。この取引、数字の上では悪くない。むしろ好条件だ。
それなのに——。
「では、納期についてですが」
相手の担当者が話し始めた瞬間、透の耳に別の音が重なった。
『三ヶ月で破談になる』
透の手が止まった。
今の、何だ?
彼は周囲を見回した。誰も動じていない。課長は相槌を打ち、相手の担当者は資料をめくっている。誰も、あの声に気づいていない様子だ。
『契約書にサインしても、無駄だ』
また聞こえた。男の声——低く、感情のない、まるで機械が読み上げるような声。だが、誰の口も動いていない。
透の心臓が早鐘を打ち始めた。幻聴? まさか。自分は疲れているだけだ。最近、残業続きだった。睡眠も十分に取れていない。それで、ちょっと——。
「倉田さん、どう思います?」
課長の声に、透は慌てて顔を上げた。
「え、あ、はい」
「データ分析の観点から、この納期で問題ないか確認したいんですが」
透は画面に目を落とした。数字が泳いでいる。いや、泳いでいるように見える。集中しろ。落ち着け。
「……少し、確認させていただけますか」
透は時間稼ぎをするように、資料をゆっくりとスクロールした。数字を追う。在庫、物流、生産ライン——理論上は、問題ない。問題ないはずだ。
なのに、喉の奥の違和感は消えなかった。
『この契約、続かない』
声がまた聞こえた。透は唇を噛んだ。無視しろ。ただの疲れだ。
「……正直に申し上げますと」透は言葉を選びながら話し始めた。「データ上は問題ありません。ただ、念のため、もう少し詳細な検証をさせていただいてから、最終的な判断をしたいと思います」
課長が怪訝そうな顔をした。「検証って、何を?」
「リスク要因の洗い出しです。想定外の事態に備えて」
相手の担当者が眉を上げた。「想定外の事態、ですか。具体的には?」
透は答えに窮した。何も思いつかない。ただ、漠然とした不安だけがある。
「……申し訳ありません。もう少し、時間をいただけますか」
会議室に沈黙が落ちた。気まずい空気。課長が咳払いをする。
「倉田は慎重なんですよ。それが彼の長所でもあるんですが」
フォローのつもりだろうが、透には責めるように聞こえた。
結局、その日の会議は結論を先送りにして終わった。相手企業の担当者は不満そうだったが、「では、次回までに」と資料をまとめて立ち去った。
会議室に課長と透だけが残された。
「倉田、お前らしくないな」
課長は腕を組んで、透を見た。
「あの案件、いけると思ったんだが。データも問題なかっただろう? なのに、なんで消極的なんだ」
「すみません。ただ、どうしても……」
「どうしても、何だ?」
透は答えられなかった。「声が聞こえた」とは言えない。そんなことを言ったら、頭がおかしいと思われる。
「……もう一度、データを精査します」
「そうしてくれ。だが、あまり時間はかけられないぞ。相手も待ってくれない」
課長は溜息をついて、会議室を出て行った。
一人残された透は、ノートPCの画面を見つめた。数字が、まるで嘲笑うように並んでいる。
なぜだ。なぜ、あんな声が聞こえたんだ。
透は頭を抱えた。疲れている。それだけだ。少し休めば、元に戻る。
だが、胸の奥底で、何かが——小さな亀裂が——音を立て始めていた。
その夜、透は遅くまでオフィスに残った。
フロアには誰もいない。蛍光灯の白い光だけが、無機質に机の上を照らしている。窓の外には夜景が広がっているが、透の目には入らなかった。
彼は何度も、あの取引先のデータを見直した。
売上推移、財務状況、業界内でのポジション。すべて調べた。どれも「問題なし」を示している。むしろ優良企業だ。この案件を逃すのは、明らかに損失だ。
それなのに。
透はマウスを握る手に力を込めた。
あの声が、頭から離れない。
『三ヶ月で破談になる』
透は椅子に深く背を預け、天井を見上げた。
自分は、何を恐れているんだろう。
データは嘘をつかない。それが透の信条だった。数字には感情がない。バイアスもない。ただ、事実があるだけ。だからこそ、透はデータを信じてきた。
でも、今——。
透は目を閉じた。暗闇の中で、あの声がまた響く。
『続かない』
いや、違う。これは幻聴だ。ストレスか、疲労か、何かの一時的な症状だ。明日になれば、消えている。きっと。
透はノートPCを閉じ、立ち上がった。帰ろう。今日はもう、考えるのをやめよう。
だが、エレベーターホールに向かう途中、透は自分のデスクの前で足を止めた。
机の上に、一枚の付箋が貼られていた。
『体調、大丈夫? 無理しないでね』
後輩の字だ。透は付箋を手に取り、しばらく見つめた。
心配されている。それが、妙に重かった。
翌朝、透は早めに出社した。
まだ誰もいないオフィスで、彼は再びデータと向き合った。今度こそ、論理的な「理由」を見つけなければ。あの取引を見送るための、正当な根拠を。
だが、何時間探しても、見つからなかった。
透は苛立ちを覚えた。自分は何をしているんだ。根拠もなく、契約を拒否しようとしている。それは、データアナリストとして失格だ。
それでも——。
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