深宮低拜玉階寒

 門をくぐった瞬間、世界から雑音が消えた。


 重い。甘い。

 沈香じんこう白檀びゃくだんが暴力的な密度で混ざり合い、肺の奥まで染み込んでくる。


 石畳の道がどこまでも続いている。

 左右に植えられた柳の枝が、風もないのに規則正しい律動リズムで揺れていた。

 どこか遠くで琵琶の音が響き、絹のとばりがゆっくりと風を孕む。

 すべてが作り物。すべてが完璧。

 解像度は極限まで引き上げられ、テクスチャの境界線すら見当たらない。


 ——噁心きもちわるい


 「紅梅ホンメイ


 背後から、氷を噛み砕くような声がした。

 リンが振り返ると、そこに一人の女が立っていた。


 侍女の装束。リンと同じ、緻密なぬいを施した襦裙じゅくん

 だが、その顔には「生物」としての揺らぎが一切なかった。

 毛穴のない陶器のような肌。1ミリの狂いもなく調整された表情筋の動き。


 高度な人工知能。人偶NPC


「ついてきて。仕事を教える」


 女は踵を返した。

 足音一つ立てない、最適化された歩行。リンは無言でその後を追った。


 ◇ ◆ ◇


「この世界ワールドは三つにわかれている」


 案内役の人偶——青蘭チンランが、歩きながら淡々と説明を続ける。

 視線の奥には、何の光も宿っていない。


市井しせい無料会員フリープランの客が遊ぶ場所。ここ、長楽宮ちょうらくきゅうは選ばれた会員課金者が妃と過ごすための楽園。そして——」


 青蘭が足を止めた。

 回廊の先、金塗りの扉。その奥。


「——冷宮」


 その名を口にした瞬間、青蘭の表情筋が微かに固まった。


「……聞かないことを、お勧めするわ」


 青蘭は何事もなかったかのように歩き出した。


「あなたの仕事は、妃の補助。茶を淹れ、香を焚き、衣を整える。妃たちにお客様を——『満足』させるための完璧な背景バックグラウンドを提供しなさい」


 リンは頷いた。


 ◇ ◆ ◇


 長楽宮は、人間の欲を煮詰めて金箔で覆ったような場所だった。


 牡丹の刺繍がのたうつ絹のとばり翡翠ひすいを象嵌した黒檀の机。

 金箔を貼り巡らせた天井には、永遠に昼の太陽を模擬シミュレートする光の粒子が舞っている。

 すべてが過剰。すべてが眩しすぎ、すべてが空虚。


 そして、妃たち。


 彼女たちは、龍華の演算能力を贅沢に使い果たした最高級の芸術品だった。

 琵琶を弾く指先。書をしたためる筆運び。舞い踊る衣の揺らめき。

 どの角度からズームしても、多辺形ポリゴンの破綻一つない。

 彼女たちは完璧な微笑みを浮かべ、完璧なタイミングで首を傾げる。


 そこに、客が来る。


 仮想世界に接続してくる「皇帝」たち。

 彼らの纏う偽皮アバターは、眩いばかりの龍袍りゅうほうや玉の冠で飾られている。

 だが、その所作までは偽装しきれない。

 背中を丸め、どこか卑屈な視線を泳がせ、不自然な大声で笑う。

 現実リアルの九龍塞で、酸性雨に濡れながら安物の演算機に向かっているであろう、しがない中年の残滓が透けて見える。

 ここでは誰もが、金で買った嘘の頂点に立つことができる。


 妃たちは皇帝にかしずき、望む通りの詩を詠み、酒を酌み交わす。


 ——假的うそだ。全部、芝居だ。


 リンは茶を淹れた。

 沸騰する湯の温度、立ち昇る茶葉の香り。すべてが参数パラメーター通り。

 香を焚き、衣の乱れを整える。


 茶器を棚に戻す際、リンは指先を柱に掠めさせた。

 意識の隅で、解析コードを走らせる。


 ——『長楽未央』。


 侵入を試みた瞬間、視界の端でエラーログが走った。

 市井の壁とは次元が違う。

 重く、分厚い。龍華の技術力を結集した暗号化の壁。


 リンは表情を変えず、次の茶器を手に取った。

 妃たちはリンを見もしない。客たちもまた。

 それでいい。


 ◇ ◆ ◇


 白雲バイユンを見たのは、夕刻のことだった。


 紅に染まった回廊を歩いていた時、向こうから静かな人影が近づいてきた。

 白い衣。長い黒髪。

 逆光の中に立つその姿は、この豪華な後宮において、唯一「色」を失った欠落のように見えた。


 足が止まった。

 先に白檀の香りが届いた。


 ——『また会える』


 喉の奥が引き攣る。何かを言おうとして——


 ——『白雲という男には、近づくな』


 金龍ジンロンの声が、耳の底で鳴った。


 白雲は、リンの前を通り過ぎようとしていた。

 白檀の香りが濃くなる。間違いない。あの時と同じ香り。


 声が出ない。

 身体が動かない。


 視線すら、向けられなかった。

 白雲はただ前を見つめ、リンを認識することさえ拒絶しているかのように、静かに横を通り抜けた。


 ——いや。


 一瞬だけ。

 白雲の視線が、回廊の壁に掛けられた古い鏡へと向けられた。

 見なければ見逃すほどの、微かな動き。

 それが何を意味するのか、リンにはわからなかった。


 白檀の残香だけが、回廊に漂っていた。


 白雲の背中が回廊の角に消えていく。

 追いかけることも、呼び止めることもできなかった。


 白雲は回廊の突き当たりにある扉の前で立ち止まった。

 重厚な黒檀の扉。金の細工が施された、明らかに格上の部屋。

 白雲が扉に触れると、音もなく開いた。


 中は見えない。ただ、古い書物の匂いが一瞬だけ漏れ出た気がした。


 ◇ ◆ ◇


 夜。


 侍女たちの寝床は、後宮の外れにある簡素な部屋だった。


 視界の隅で、通信ログが点滅を繰り返している。

 暗号化された、黒凱ヘイカイからの着信。


<< Black: 中はどうだ >>


 リンは絹のしとねに身を投げ出し、視覚野のウィンドウへと思考を流し込んだ。


<< Gray: 隅々まで龍華のロゴが彫り込まれている気分だ >>

<< Black: お前らしい感想だ。神経は焼かれていないか? >>

<< Gray: 礼法プロトコルに則っている限りは安全だ。潜ってからどのくらい経った? >>

<< Lan-chan: 08:23:47...いえ、08:23:48でございます >>

<< Black: 無理はするなよ >>

<< Gray: そちらは? >>

<< Black: 予定通り。首尾はどうだ >>

<< Gray: 白雲には会った。だが、透明人ゴースト扱いだ。接触の糸口さえ見えない >>


 沈黙。

 通信ウィンドウのカーソルが点滅し、返信が止まる。

 長い。いつもより、長い。


<< Black: 深入りするな >>


 通信が途絶した。


 眠れなかった。


 褥の中で、何度も寝返りを打つ。

 絹が肌に絡みつく。沈香の香りが、甘すぎて息苦しい。


 ——あの鏡。


 白雲が視線を向けた、回廊の古い鏡。

 あれは何だったのか。

 単なる偶然か。それとも、何かの合図か。


 リンは身体を起こした。


 周囲を見回す。同室の侍女たちは、規則正しい呼吸で眠っている。

 完璧に同期した寝息。


 足音を殺して、部屋を出た。


 深夜の回廊は、昼間とは違う顔をしていた。

 月光が窓から差し込み、石畳に青白い影を落としている。

 人偶たちは眠りについている。見張りの気配もない。


 あの鏡は、すぐに見つかった。


 回廊の壁に掛けられた、古い銅鏡。

 縁には緑青ろくしょうが浮き、鏡面は曇っている。


 リンは鏡の前に立った。


 ——白檀。


 香りが、濃くなった。

 後宮に満ちる沈香とは違う。あの男の残り香。


 指先で鏡面に触れた。

 冷たい。金属の感触。解析コードを走らせる。


 ——何もない。


 隠しデータも、暗号化された領域も、何も検出されない。


 白雲は、なぜこれを見た?


 月光が鏡面を滑る。

 映っているのは、紅梅ホンメイの顔。

 ——偽りの私。

 では、本当の私は?

 灰琳フイリン。その名前すら、本物かどうかわからない。


 リンは鏡から離れ、回廊を進んだ。

 白雲が消えた場所。あの黒檀の扉。


 扉の前に立つ。

 重い。威圧的な存在感。金の細工が月光を反射し、冷たく光っている。


 入力欄が、視界に浮かんだ。

 七文字分の空白。


 ——何を入れればいい?


 触れようとした——その瞬間、指先に鋭い警告が走った。


 『入力に間違いがあれば、システム全体に通知されます』


 リンは手を引いた。

 今は、まだ。


 ◇ ◆ ◇


 絹の褥は柔らかく、沈香の香りが鼻腔をくすぐる。


 視界の端で、錯誤報告エラーが一瞬だけ赤く点滅した。

 現実の身体。義肢の左手が、微かに震えている。


 カイの、あの傷だらけで無骨な手がふと脳裏によぎる。

 リンはそれを振り払うように目を閉じ、虚構の眠りへと沈んでいった。

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2026年1月10日 19:00
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