電子楓橋 ~漢詩でハックするVR後宮潜入譚~

香月 陽香

楓橋夜泊入夢宮

「人間か機械か、と問うなら——」


 白い衣の男が、灰琳フイリンを見ていた。


 月明かりが回廊を銀に染めている。沈香じんこうの煙。琵琶の音。

 完璧な夜だった。吐き気がするほど。


 リンは動けなかった。

 侍女の装束に身を包み、髪には珊瑚のかんざし


「——さて。どちらだと思う?」


 声は穏やかだった。ぎょくを転がすような、と古い詩人なら詠んだだろう。

 だが目が笑っていない。黒曜石のような瞳が、月光を吸い込んで、底なしの闇を湛えている。


「あんたは」

白雲バイユン


 その名が鼓膜を叩いた。

 ——知っている。

 リンの唇が動いた。何かを呼ぼうとして、声にならない。


 問いの先を待たず、男は名だけを重りのように落とした。


 『月落烏啼霜満天』——張継の詩句コードを詠んだ。

 礼法プロトコルを眠らせ、防壁ファイアウォールは破った。

 なのに——


 逃げろ——脳の奥で警鐘アラートが点滅する。

 見抜かれている。假牒偽装IDも、侵入経路バックドアも。


 男が一歩、近づいた。白い衣の裾が、風もないのに揺れる。

 白檀びゃくだんの香り。甘く、重く、どこか腐った百合の花に似た、死と隣り合わせの甘美さ。


「相見時難——」


 男が口を開いた瞬間、リンの四肢が凍った。


「——別亦難」


 詩句が空気を縛る。神経が灼ける。逃げられない。


 ——会うのが難しい?別れも難しい?冗談じゃない。


 リンは奥歯を噛み締め、強制離脱ジャックアウトのコマンドを叩いた。


 蓮池が砕けた。月が割れた。琵琶の音が歪み、沈香の煙が塵になって0と1の羅列に溶けていく。


 ——再見また会おう


 砕ける月の欠片の向こうで、男の口元だけが、何かを言いたげに動くのが見えた。


 ◇ ◆ ◇


『同一性は保持されます。安全と安心の龍華ロンホワ夢幻後宮——』


 冷却ファンの唸り。広東語の怒号。壁越しのテレビCM。

 九龍塞コウロン・ブロック。違法建築の蟻塚。陽の光は届かない。


 リンは床に転がっていた。

 演算器サーバーが埋め尽くす棺桶のような部屋。枕元には古い鍵が一つ。錆びて、何の鍵かもわからない。ただ、捨てられない。

 窓の向こうでは、酸性雨が霓虹ネオンを滲ませている。


 うなじの接続端子ジャックが焼けるように熱い。無理やり接続を切った代償だ。


 リンは起き上がろうとして、肘をついた。

 床は油で滑り、壁はかびで黄ばんでいる。さっきまでの世界が、嘘のようだった。


 義肢の指先が震えている。触れているのに、触れていない。


 あの男は——何者だ。


 うなじの接続端子に触れる。熱は引き始めている。

 だが、指先に何かが残っている気がした。VRにあるはずのないもの。


 ——沒事なんでもない。気のせいだ。


 ドアが鳴った。

 ノックではない。拳で殴りつけるような、無遠慮な音。

 リンは咄嗟に、枕元の鍵を掴んだ。

 錆びた金属。なのに、掌だけが熱い。

 左手首の装甲板パネルを開け、滑り込ませる。


「入れ」


 錆びた蝶番が悲鳴を上げて、男が入ってきた。

 革のジャケット。剃り残しの顎。煙草と鉄錆の匂いが、狭い部屋を一瞬で塗り潰す。

 黒凱ヘイカイ——カイ。リンの「外」を担当する男。保鏢ボディガードと呼ぶには粗野すぎる。


 カイは挨拶もなく、壁に背を預けて煙草に火を点けた。


「……何時間、潜ってた」


 リンは呟いた。自分でもわからない。仮想VRの中では時間の感覚が溶ける。

 答えは、カイの懐から返ってきた。


「三時間四十二分十八・七三二一四六秒です」


 女の声。丁寧で、冷たくて、どこか慇懃無礼な響き。

 カイが舌打ちした。


「秒まででいい、ランちゃん」

「イントネーションが異なります。ランちゃんではありません。藍銃ランチャンです」


 カイの懐から顔を覗かせたのは、銀色の銃身だった。旧式の拳銃——に見える。だがその銃口付近には、青白い光点インジケーターが瞬いている。

 藍銃。カイの相棒。人工知性AIを搭載した、喋る銃。


「で、収穫は」


 カイは藍銃を無視して訊いた。部屋は禁煙だとは言わない。どうせ聞かない。


「逃げてきた」

「掴めたか」


 龍華の闇を。

 ——それとも、本当の自分を。


「何も」


 カイは煙を吐いた。文句は言わない。仕事が終われば報酬を渡す。失敗すれば次がある。それだけの関係。互いの過去は知らない。知る必要もない。


「怪我は」

神経シナプスが少し焼けた。寝れば治る」


 黙って頷いたカイの手の甲に、真新しい裂傷があった。血が滲み、瘡蓋かさぶたになりかけている。


「そっちは?」

「蜂型が数匹。いつもと同じだ」


 煙草の火が、暗がりで赤く揺れる。

 カイの指は生身だった。爪の間には油汚れ。節くれだった関節。火傷の痕。——血が通っている手。


 リンは自分の義肢を見下ろした。

 滑らかで、傷ひとつない。冷たくて、完璧で、どこにも「私」がいない。


「中で何があった」


 カイの声に、リンは顔を上げた。


管理者アドミニストレーターに会った」

「それで?」

「殺されかけた」


 カイは煙草を咥えたまま、短く笑った。


「人間だったか?」


 何気ない質問だった。

 だがリンは、すぐに答えられなかった。


 完璧すぎる所作。月光を吸い込む瞳。詩句で神経を縛る力。


 ——それでも、あの笑みは。


「わからない」


 リンは正直に答えた。


「人間にしては完璧すぎる。AIにしては——」

「生々しすぎる?」


 カイが先を継いだ。

 リンは頷いた。


「お前と同じだな」


 カイは煙を吐きながら、窓の外を見た。酸性雨がネオンを溶かしている。


 冗談のつもりだろう。

 だがリンは笑えなかった。


「……なぜそこまでする」


 カイがぼそりと呟いた。


「聞かない契約だろ」


 リンは窓の外を見たまま答えた。


 カイが煙草を床に落とし、踵で踏み消した。


「一時間後に移動だ。頭を冷やしておけ」


 ドアが閉まる。煙草の煙が、ゆっくりと薄れていく。


 リンはベッドに倒れ込んだ。

 天井の染みを見つめる。湿気と黴の匂い。遠くでパトカーのサイレン。


 眠れば、治る。

 たぶん。


 目を閉じる。

 強化カーボンの鼻の奥に、そこにあるはずのない白檀の香りがした。

 それがなぜか、懐かしかった。

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