灰光の残響

朧木 光

プロローグ 星が灰になった夜

 その夜、世界から「色」が消えた。

 今からおよそ百年前。

 後に『灰光(かいこう)の夜』と呼ばれることになるその日、人々はいつものように夜空を見上げ、そこに当たり前にあるはずの奇跡を信じていた。

 王都の上空には、七色に輝く防御結界のオーロラが揺らめき、大通りには魔石灯の暖かなオレンジ色が溢れ、空飛ぶ船が優雅に銀河を横切るように航行していた時代。

 呼吸をするように魔法があり、誰もがその恩恵を疑わなかった黄金の時代。

 終わりは、唐突だった。

 予兆も、警告も、何ひとつなかった。

 深夜零時を告げる鐘の音が、重苦しく響き渡った瞬間だ。

 夜空の星々が、一斉に瞬きを止めた。

 いや、星が消えたのではない。空そのものが、音もなく「灰色」に塗り潰されたのだ。

 乾いた砂を撒いたような音が、世界中の大気を震わせた。

 人々が驚いて空を見上げると、そこから降り注いでいたのは、雪でも雨でもなく、淡く発光する灰色の粒子だった。

「なんだ、これは……?」

「おい、灯りが消えるぞ!」

 誰かの叫び声が、絶望の幕開けだった。

 街を照らしていた魔石灯が、次々と黒く濁り、砕け散っていく。

 空を飛んでいた船が、まるで糸の切れた人形のようにバランスを崩し、きりもみ回転しながら墜落していく。

 宮廷魔術師たちが慌てて杖を掲げ、防御呪文を唱えようとしたが、その切っ先からは火花ひとつ散らなかった。

 炎が出ない。風が起きない。水が湧かない。

 世界を構成していた理(ことわり)そのものが、灰色の粒子に触れた端から、急速に死滅していく。

 悲鳴と、轟音。

 崩れ落ちる巨塔。

 地上へ叩きつけられる文明の残骸。

 それは、人類が築き上げてきた栄光が、ただの瓦礫へと変わる瞬間だった。

 神様が気まぐれにスイッチを切ったかのような、あまりにもあっけない終焉。

 人々は逃げ惑い、あるいは祈り、あるいは愛する人の名を叫んだが、灰色の雪は無慈悲に降り積もり、すべてを等しく埋め尽くしていった。

     

 その混乱の渦中で、ただひとり、空を見上げ続けている少年がいた。

 瓦礫の山の上に立ち、降りしきる灰の中で、彼は逃げようともせず、ただ静かにその光景を目に焼き付けていた。

 彼の名は、歴史に残っていない。

 ただの無力な少年だったのかもしれないし、あるいは誰よりも深く絶望していたのかもしれない。

 彼の周囲だけ、なぜか時間がゆっくりと流れているようだった。

 少年は、震える手を伸ばし、空から舞い落ちてくる灰色の粒子をひとつ、掌で受け止めた。

 冷たくもなく、熱くもない。

 ただ、ひどく虚ろな感触。

「……終わるんだね」

 少年の唇からこぼれた言葉は、誰に届くこともなく灰に吸い込まれた。

 世界中の魔力が枯渇し、輝きが失われていく中で、彼の意識もまた、深い闇の底へと引きずり込まれようとしていた。

 抗えない眠気が、彼を襲う。

 それは死への誘いか、それとも慈悲深い避難所への招待か。

 視界が灰色に染まり、意識が遠のいていく。

 最後に彼が見たのは、かつて美しかった王都が、色褪せた廃墟へと変わり果てていく姿だった。

 彼は願った。

 もしも、次に目が覚める時があるのなら。

 この灰色の悪夢が去った、光ある世界であってほしい、と。

 そうして少年は目を閉じ、深い、深い眠りについた。

 彼と共に、魔法という名の時代もまた、永遠の眠りについた――はずだった。

     

 それから、百年という時が流れた。

 世界は変わり果てた。

 魔法を失った人類は、かつての栄光を昔話として語り継ぎながら、残されたわずかな資源と知恵を頼りに、細々と、けれどしぶとく生き延びていた。

 灰色の空は相変わらず世界を覆っているが、人々はその下で新たな秩序を築いていた。

 誰もが、あの夜のことを「悲劇」として記憶している。

 誰もが、魔法のない世界を「現実」として受け入れている。

 だが、運命の歯車は、まだ止まってはいなかった。

 百年前の瓦礫の下。

 忘れ去られた地下の暗がりで。

 

 止まっていたはずの心臓が、トクン、と小さく波打った。

 ――再起動(リブート)。

 埃まみれの空間で、少年はゆっくりと瞼を開く。

 その瞳に映ったのは、彼が知っている世界とは似ても似つかない、奇妙な光景だった。

 

 ここがどこなのか。今はいつなのか。

 そして、なぜ自分だけが目覚めたのか。

 彼はまだ何も知らない。

 ただひとつ確かなことは、

 「魔法が死んだ世界」に、

 「魔法を知る最後の少年」が帰ってきたということ。

 百年の沈黙を破り、物語がいま、動き出す。

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