第一章 花に嵐の例えもあるさ②

 賢人が通う高校は、東京都荒川区町屋というザ・下町にある。学校は歴史もそれなりに長く、逆に言えばそれしか取り柄のない良くも悪くも中堅校と言うのが正しい。偏差値は五十五前後で、しかもこれと言って秀でた部活もないのがここ、私立睦川むつみがわ高校、通称ムツコウだ。

 短い春休みが終わり、あっという間に新学期。賢人もこれで晴れて高校二年生となる。


「やったあ! 今年もけんけんと同じクラスだ!」


 ほんの最近までこのまま死ぬんじゃないかと思ってしまうほど、覇気のない顔をしていた光輝が、今は以前のような人懐こい笑みを隣で浮かべている。そんな彼の様子に、なんとか失恋の山は越えたらしいと内心安堵する。

 身長が百七十センチ後半の賢人と比べ、光輝は少し小柄だが目がぱっちりと大きく、顔も整っていることから犬みたいな印象を受ける。実際性格も犬っぽく、昔から女子人気は高いように思う。何はともあれ、そんな友人に笑顔が戻ってきたのは喜ばしいことに変わりない。

 そんなことをしみじみと考える賢人をよそに、光輝がほらと下足室前の扉に大きく貼られた、クラス表の一つを指差して見せる。


「おー本当だ。今年もよろしく」


 内心一人で昼ご飯を食べなくて良いことに安堵しつつ、一応一年間共に過ごすことになるクラスメイト達の名前を流し見る。去年も同じクラスだった人はちらほらいるものの、一クラス四十人が八クラスもあれば、流石にある程度はバラけるようだ。そう考えると、光輝が今年も同じクラスだったのは本当に運が良かった。


「お、今年は五十嵐いがらしさんも同じクラスじゃん」

「……五十嵐さん、って誰?」


 聞き覚えのない名前に、賢人は首を捻る。そもそも同じ学年に、噂になりそうな人なんかいただろうか。


「けんけん知らないの? 〈保健室の雪女〉って有名だよ?」

「いや、だから誰?」


 一年この学校に通ったが、そんな人がいるなんて聞いたこともない。と言うか〈保健室の雪女〉と呼ばれるなんて、いじめか何かじゃないだろうか。


「あーけんけん俺以外に友達いないもんね」

「うるせえ」

「そんな可哀想なけんけんに教えてあげよう」


 光輝はそう言うと、ニヤリと笑った。


「理由は知らないけど、去年はほとんど保健室登校だったみたい。だから、その姿を見た人はほとんどいないんだけど、すっごく可愛いんだって! あまりにも可愛いから人形みたいだってもっぱらの噂だよ」

「人形なのか雪女なのかどっちだよ……」


 個人的に保健室登校が悪いとは全く思わないが、そんな滅多に登校しない人が今年は登校して来る保証なんてないだろうに。そもそも最近まで彼女なんて真っ平だとか言ってたやつがどの口で言うか。なんて野暮なことが口から出かかるのを、すんでのところで我慢する。未来を向き始めた友人に、余計なことを言う方が野暮というものだろう。

 ふと、電車で会ったあの女性のことを思い出す。あの人も顔がかなり整っていたが、どちらかと言えば可愛いよりも綺麗と言った方が適切な気がする。それに、あれ以来一度も見掛けていないし、賢人が普段女子生徒から視線を逸らして過ごしているだけに、似たような制服と見間違えた可能性も十二分にある。


「けんけんも気になってきた?」

「いんや、全く」


 そんなやりとりを重ねながら、光輝と連れ立って新しい教室へと向かおうとしたとき、ふっと誰かが横切った気がした。

 ふわっと香った甘い香水の匂いを知っているような気がして、顔をそちらへ向けたとき、賢人は思わず息を飲んでしまった。

 一眼で、彼女だと分かった。

 あの夏の日の昼下がり。電車の中で賢人に向かって馬鹿にするかのような笑いを残して去った、彼女で間違いない。間違えるはずがない。髪の毛はもう金髪ではなく、どちらかと言えば明るい茶色に変わっていたが、彼女の初雪を思わせるような白い肌によく似合っていた。最初は別人かと思ったけれど、それでもその大きな瞳の下にある黒子に、彼女だと確信する。


 見惚れていたのは賢人に限らず、そこにいる人は皆、彼女に釘付けだった。賢人の身長もそこそこ高いはずなのに、それでも同じぐらいではないかと思わせるような背丈。紺色のブレザーの下に着ている白いシャツは大胆に開けられてはいるけれど嫌味はなく、前でだらしなく揺れている学校指定のネクタイでさえも、むしろ最初からそうすることが正解であるかのようだった。スカートから伸びる細い足の長さ。彼女の足下には自分と同じ学年カラーのスリッパが、まるで新品のようにキラキラと光って見えた。

 これが初めて彼女を見た瞬間だったのだとしたら、賢人は恋に堕ちていたかもしれない。髪を鬱陶しそうに掻き上げる仕草一つでさえも様になっていて、周りからハッと息を飲む音が聞こえるようだ。


 それでも、賢人の中を渦巻くのは決して憧れや恋慕と言った類いの感情ではなく、もっと苦々しいそれ。あの日のことを思い出して、どうして今、視線を奪ったのがお前なんだとさえ考えてしまう。彼女でなければ、賢人は無駄な苦々しさを覚えず、ただ素直に憧れを抱きながら、遠くから彼女の姿を目で追うだけで済んだのに。

 賢人が自分の感情から逃げるために隣へ視線を移すと、自分よりもさらに苦々しい表情で同じ方向を見つめる光輝がいた。光輝もあの女性に何かされたのだろうか……何てことを考えてから、身長の高い彼女に隠れていた人物の横顔を見てハッとなる。彼女の横でにこにことした笑みを浮かべて何か話しているのは、光輝の恋人だった人。その人物が何を思ったか突然後ろを振り返った。しかし、彼女はこちらに気が付いた様子もなく、チャームポイントのおさげを楽しげに揺らしながら、再びおしゃべりに戻ってしまう。


「……日和ひより


 光輝の元カノを呼ぶ声の悲痛さに、申し訳なくも救われた気がしてしまうのは何故だろう。

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