この痛みを、「恋」なんて言葉で片付けないで

プロローグ

「……ねっむ」


 平日の昼下がりの京成線。人が少ない車両で、湯浅賢人ゆあさけんとは手元の推理小説から顔を上げて一際大きな欠伸を浮かべた。いつもと同じ通学路のはずなのに、ただ時間が違うだけでこんなにもゆるやかになるのかと、窓の外に見えるスカイツリーを眺めながら欠伸をもう一つ。

 七月に入ったばかりの蒸し暑さも、空調のおかげでそこまで苦ではない。それが心穏やかに過ごせる理由かも知れない。


 しかし、そんな心地よさも電車が次の駅で停止するまでのことで、扉が開くなりぞろぞろと車両に乗り込んで来た人々によってガラガラだった席が次々と埋まっていく。先程までののんびりとした雰囲気はもう感じられない。それは少し残念だったけれど、これで小説の続きが読めるならまあいいかと気持ちを切り替えた時、どかっと無遠慮に隣の席が埋まる。それと同時に、香水の甘い匂いが賢人の鼻を強く刺激した。


 突然の出来事に賢人は目を白黒させながらも、そのあまりの無遠慮さに思わず小説の隙間から、今し方隣に座り込んだ人物を覗き見る。

 一番最初に目に飛び込んで来たのは、肩辺りで切り揃えられた、金色に染まった髪の毛。その時点でどちらかと言えばクラスでも弱い立場である賢人は、内心うわっと声を上げる。反射的に身を縮こませる自分が情けなかった。

 それでも、チラリと見えた横顔は整いすぎているといった表現がぴったりで、こんな綺麗な人がいるのかと少しだけ心が浮つく。


 透明感のある白い足が伸びるスカートは見覚えのあるもので、彼女が同じ学校の生徒だと悟る。でも、こんな目立つ子がいただろうかと必死に思い出そうとするも、思い浮かばないということはおそらく同級生ではないだろうと考えて、ようやく少しだけ安堵する。彼女はこちらのことなど気にもしていないようで、先程からスマホで何やら文字を打ち込み続けている。

 ただ、これ以上盗み見るのは流石に人として気持ち悪かろうと、逃げるように視線を手元の小説に落とす。しかし、隣に自分の苦手とするジャンルの人間がいることに対する恐怖心のせいか、漂って来る香水の甘い匂いのせいかは分からないが、先程から探偵が同じことを呟くばかりで物語は進んでくれそうにはない。本を読むことは諦め、そのまま瞼を閉じる。学校の最寄り駅はまだ先だし、このまま少し眠るぐらいなら大丈夫だろう。


 心地良い揺れにうとうととし始めた頃、肩に微かな重みを感じる。何だと思ってそちらへ視線を向けると、先程までは少し距離のあったはずの金色のそれが今は目の前にあった。突然の出来事に眠気が全て吹き飛んでしまう。何だこれはと何度も自分に問うも、女性が寝ぼけてこちらに頭を乗せている事実は変わらない。

 しばらくそのまま固まっていた賢人だったが、彼女の頭がずり落ちる気配がして、もぞもぞと体を動かしてなんとか頭の位置を元の場所に戻すことに成功する。


「……何してんだろ」


 ため息交じりに呟くのと同時に、車内アナウンスが目的の駅名を告げる。気持ち良さそうに眠っている女性には申し訳ないが、ただでさえ今日は遅刻してるんだ。これ以上遅れることはできない。

 電車がゆっくりと目的地へと到着するのと同時に、パチリと目を覚ました女性がさっと立ち上がった。こちらを振り向いた彼女の大きくて黒い瞳と目が合う。横顔を見た時も綺麗だと思ったけれど、正面から彼女の顔を見ると、まるで芸能人が目の前に現れたかのような衝撃があった。スッと通った鼻筋。明るいピンク色をした薄い唇。ナチュラルに施された化粧は、整った彼女の顔立ちをより引き立てているようだった。右耳に着けられたピアスが、きらりと光って見えて、それが何故か白いなと思った。


 左目のすぐ下にある黒子を見て、賢人はおや? と妙な親近感を覚える。同じクラスではないにせよ、やっぱり同じ学年にいただろうか。そんなことを考えていた賢人を見て一瞬複雑そうな表情を浮かべたかと思うと、すぐに女性はフンと小馬鹿にしたように笑った。突然の出来事に唖然とする賢人を残して、彼女はそのまま電車を降りてしまう。

 いやいや、目が合っただけでそんな見下したように笑うことはないんじゃないか? 何なら最初にもたれかかって来たのはそっちだろ? そんな怒りが後から湧いたけれど、その怒りをぶつける相手はもういない。


 隣に疲れた顔をしたサラリーマンが座った時、ようやく賢人は自分も同じ駅で降りるはずだったことを思い出した。

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