The Lark Ascending

化着眠猫(かぎ・ねこ)

The Lark Ascending

彼女のことを考える。

窓は開けておいた。外から昼の陽気と共に、少し肌寒さを感じるような風が吹き込んでくる。扉も全て開き、今いる浴室からそのまま外へ飛び出すことができるはずだ。

僕は浴室の床に座り、目を閉じて気分を落ち着けようとしていた。

床に置いたカミソリを手に取っては、あまりに震えるその手を見つめ、床にまた置き直すことを繰り返していた。

彼女のことを考える。

彼女との出会い、過ごした日々、そして最近の出来事を改めて思い出していく。そして、次にぼくらが会うすがたをイメージする。



**



キジバトが印象的な音色で自らの居場所を知らせ、スズメたちは電線の上から僕を見下ろしている。高い青空と爽やかな暑さが夏の朝を印象づけている。彼女と最後に会った日は快晴で、ここ最近では一番調子が良さそうだった。彼女のベッドは窓際にあり、日当たりのいい病院の中でも一層明るい場所だった。そこで彼女はよく本を静かに読んでおり、時折窓の外で羽ばたく鳥たちに思いを馳せていた。


「ほら、見える? あそこに留まっているの。あれはキビタキよ」


彼女は鳥たちを愛していた。愛するとともに、彼らの暮らしに憧れていた。近くの枝に鳥が留まると、そこから飛び去っていくまでをずっと追いかけ、見えなくなってしまった時には少し寂しそうな顔をするのだ。

僕が知らない鳥が近くに来たときには引き出しから分厚い図鑑を取り出し、その鳥について話をしてくれた。その図鑑は既に彼女の手元に、入院する前からずっとあった。元気な時にはそのままその隣に紹介してある鳥、次のページの鳥、解説に出てきた鳥と話を続け、鳥の話が止まらなくなってしまうことも多々あった。

僕はそんな彼女のことを愛していた。


彼女は高校の同級生だった。いつも教室で隅の方で静かに本を読んでいる女の子。そんな印象だった。時折友人の女の子たちと話している様子もあったが、どちらかというと一人で読書をしている時間の方が長かった。

自分で言うのもなんだが、僕も似たようなタイプだったので、共感こそあれど、接点はなかった。初めてちゃんと話をしたのは図書室でだった。お互い本好きだということがわかり、そこで挨拶から次第に打ち解けていったのだ。その時に彼女も僕のことを気にかけていたと知った。

高校の卒業式、僕は彼女に気持ちを打ち明けた。それぞれ別の大学への進学が決まっていたため、気持ちを伝えるタイミングはその時しかないと思った。彼女は迷わず僕の気持ちを受け入れた。自分でも作り話のように感じるが、それから3年にわたって僕らは順調に付き合いを続けてきた。彼女は最近読んだ本や気になっている本の話をする一方で、鳥についてもよく話してくれた。

彼女の病気が再発し、入院することになったのはそれからの話だ。


彼女は小さい頃から病弱だったらしい。肺の病気で、当時それで小学校を長期休暇し、東北にあった祖父母の家で数ヶ月過ごしたという。もちろん療養先には友人知人はいなかったため、ほとんどの時間を書棚にある本を読み進めるのと、縁側から外をぼんやりと眺めるので過ごしたという。きっと彼女の本好きと自然を愛する性格はこのときに確立したのだろう。そこには彼女が愛するものがたくさん揃っていた。


「私、鳥になりたいの」


お互いがそれぞれの大学に通い始めたころ、彼女の家で好きな音楽の話をしているときに彼女がそう言った。


「普段クラシック曲は聴かないんだけど、おじいちゃんの家で聴いて気に入った曲があってね」


彼女は動画配信サイトで検索し、スピーカーモードにして曲を再生した。ヴァイオリンの澄んだ音色が部屋に響き渡った。


「ひばりは舞い上がり、旋回し始め

銀色の声の鎖を落とす

切れ目無く沢山の声の輪がつながっている

さえずり、笛の音、なめらかな声、震えるような声

この作曲家は、この詩からイメージを膨らませてこの曲を書いたの」


話によると、イギリスの作曲家が作った曲らしい。美しく優雅なメロディが壮大な大空に舞う姿を想起させた。言われてみれば、このヴァイオリンの響きはヒバリが空高く舞い上がる時の鳴き声そのもののように聴こえた。イギリスの田園風景の澄んだ青空の下で、一羽のヒバリが天空へと登っていく光景が見える。この光景は彼女の療養時代に過ごした原風景と重なるものがあるのだろう。肺を患い、自由に動き回れない彼女にとって、空を自由に飛び回る鳥たちが、きっと憧れの存在だったのだ。



ある日、彼女が再び入院してからしばらくして、彼女のお母さんから連絡を受けた。ご両親とは既に何度か食事を共にし、連絡先を交換するような関係を築いていた。いわば、公認のカップルだったわけだ。とはいえ、基本的に何かご両親と席を共にするようなことがあれば、彼女を経由して連絡をしており、直接連絡することがあれば旅行の写真を送る程度のことだった。そのため、電話で話したいことがあると言われた時には悪い知らせだろうとある程度覚悟はしていた。

話によると、その時点で彼女の命はもう長くないことが最近の検査でわかったらしい。彼女のお母さんは時折涙をすすりながら病状と、余命について知らせてくれた。彼女自身も少し前からそのことを知っていたという。

昨日彼女の元に訪れたときにはそんな素振りは一切感じなかった。あえて隠して気丈に振る舞っていたのかもしれない。それまでも咳き込むことはあれど、僕と会うときは体調が悪い様子はあまり見ることはなかった。とはいえ日に日に増える検査、点滴、投薬は見ていて苦しかったのは否定できない。

僕は彼女が病気について話題に出さないようにしているのであれば、それに付き合うべきだと思った。お互いを尊敬することが僕らが長続きしていた理由だと考えていた。

そのため、今までと変わらないそぶりで彼女と接することをその時は考えていた。だが、彼女と再び会うことはなかったのだった。


僕がその2日後に病室に訪れたとき、彼女はそこにはいなかった。ベッドは特に片付いているわけではなく、ベッド横のスツールには読みかけの本が、ちょうど真ん中あたりにしおりが挟まった状態で残されていた。僕はそのときに部屋に訪れた看護師に彼女は何か検査中か、いつ頃戻るかと尋ねた。だがその看護師はこの時間は特に検査は入っていないと答えた。きっと気分転換に散歩をしているのかもしれないと、あまり気にする様子はなかった。今思えばおかしなことではあるのだが、ベッドの上には院内着が丁寧にたたんで枕の横に置かれていた。

すぐにふらりと戻ってくるだろう、そもそもそんなに長く散歩ができる身体ではないはずだと考え、僕も病院内を一周して戻ってこようと、病室を後にした。

中庭に出ると、すぐに汗が出てくるほどの気温だった。夏の日差しが、建物に囲まれた小さな中庭にまっすぐ差し込んでいた。蝉たちの鳴き声が耳をつく。スズメたちが穏やかに鳴く声がその合間に聞こえ、いつもと変わらない日々を知らせた。僕は一息をつくつもりでそこに備え付けられたベンチに腰を下ろすと、隣には大学生くらいの青年が、空を見上げていた。

目の前を1羽のセキレイが走り去っていく。彼らは走るのが上手い。あの短い足は他の鳥たちと違って走るのに適していると、いつの日か彼女が教えてくれた。その後ろ姿を追いかけて視線を向けると、隣の青年がこちらに目を向けていることに気がついた。


「どう思う?」


僕が目を合わせると、青年は目をそらさず、友人に話しかけるかのように問いかけてきた。


「鳥になって自由に暮らすこと」


僕は彼のことを以前から知っていただろうか思考を巡らせた。だが、以前に彼と会った記憶は見つからなかった。


「あの……」


黒く深い瞳は僕を通してはるか先を見ているかのようで、恐ろしさを感じさせた。青年は長袖のシャツにスラックスを纏っていたが、この暑い日差しの中、いつからここに座っていたのかはわからないが、汗をまったくかいていないように見えた。


「どこかでお会いしましたっけ」


僕が問いかけると彼は表情を和らげた。


「いいえ、あなたとお話しするのは初めてです。ですが、あなたにはお伝えしておきたくて」

「何をですか」

「あなたの彼女さんはもう戻ってきません」

「あなたはどちら様でしょうか」

「彼女は鳥になりました。彼女が望んだヒバリに」

「一体あなたは何を言っているんですか」

「それ以上のことはありません。彼女は苦痛から解放され、鳥になって、大空に旅立った」


どこかかみ合わない会話の後、暑さを理由に僕は中庭を後にした。彼女の病室に戻ったが、変わらず彼女の姿はそこにはなかった。しばらくの間、その部屋で待っていたものの、彼女はそこに戻っては来なかった。そのまま彼女は完全にいなくなってしまったのだ。



彼女の失踪から3ヶ月が経ち、警察にも失踪届けが出されたものの、手がかりは見つからないままだった。初めのうちは彼女のご両親とも連絡をとりながら、僕も彼女との思い出の地を巡り彼女の痕跡を探したものだが、次第にその頻度も減っていった。諦めたわけではなかったが、何をすればいいのかわからなくなってしまったのだ。

猫は自らの死期を悟るとそっと姿を消し、誰にも見つからないところで命を引き取ると言う。

そんな言葉が心の片隅にひっかかっている。だが彼女は猫ではない。いくら死期が近づいたとしても、完全にいなくなることなどできないはずだ。

仕事の昼休み、食欲がなかったため外を散歩することにした。季節は過ぎ、からっとした秋晴れの空の下で、僕は公園を歩き、ベンチで休むことにした。タバコに火を付け、空を見上げる。高い空はどこまでも続き、僕の視線はどこも捉えることができない。夏は蝉たちの鳴き声で目立たなかった鳥たちの鳴き声が広い空間の中で時々響く。影しか見えない鳥が時々空の端から端までを通過していく。

タバコの火が消えかけた頃、今飛び去った鳥がヒバリであることに気付くと同時に、混乱と困惑の日々を過ごしていたことで忘れていたことを思い出す。病院で出会った青年。彼は何か知っていた。妄言を吐いていただけの可能性もあったが、唐突に思い出した手がかりを追い求めないわけにはいかなかった。青年はあの病院の患者なのかもしれない。僕は週末にしばらく行ってない病院へ再度訪れることにした。

病院に行ったところで見つかる当てがあるわけではなかった。彼女の病室は既に別の人が入院している。お金は払うから部屋はそのままにしてくれとご両親が掛け合っていたが、病院としても、別の患者のために仕事を続けないとならず、仕方のないことだった。結局思いつきで病院に行くことを決めたものの、行ける場所は中庭くらいしかなかった。だが、漠然とした確信を持って訪れた中庭のベンチには、ちゃんとあの青年がいたのである。


「あの、数ヶ月前」

「戻ってこなかったでしょう」

「はい」

「どこに行ったのか知っているんですか」

「お伝えしたとおり、ヒバリになって空に飛んで行きました。その後は知りません」

「なぜあなたが知っているんですか」

「ぼくと契約をして、方法を教えたからです。あの日、彼女は実行すると話してくれました。あなたと会ったらそのことを伝えてもいいとも」

「契約というのは、鳥になるという契約ですか」

「そうです」


あまりに突拍子もない話ではあったが、青年の表情も語り口も落ち着いたままだった。真実を話しているようにも聞こえる。ぼくは当然その場で納得するわけではなかったものの、見つかった彼女の現在についての糸口に内心動揺していた。信じるか信じないかは別として、僕はそれにすがろうとしていた。


「詳しく話してもらえないか」


彼は人間を鳥にする技術を持っているという。ある薬を飲むことで、自身が望む鳥の姿になれるのだと青年は説明した。ただ、単純に薬を飲むだけではだめで、それには人間を辞めたいという強い願いと、身体的な苦痛が必要であるとともに、ある種の儀式の実行、一種の呪いをかけるのようなことも求められる。それが契約と呼んでいたものだ。


「僕も契約することはできるんですか」

「お望みでしょうか。彼女さんを見つけられるかはわかりませんよ」


そう言うと青年は不適な笑みを浮かべた。つい口をついて出た言葉だったが、その意味するところは言葉以上の重みがあった。

もし仮に青年が言っていることが本当だとすると、人間を辞めて鳥になり、現在の姿を知らない彼女を探す。生きているのかすらわからない。その覚悟があるのか。


「いつでも結構ですよ」



**



彼女のことを考える。

きっと彼女は望まないだろう。契約の話を僕に一切しなかったのは、そういうことだ。

僕は右手に持ったカミソリを握る力を強める。左手を開き、上に向ける。何も身につけていない身体が、自分の心拍とともに揺れる。

それでも僕は彼女のことを愛している。姿が変わったとしても。まだ生きているのなら、もう一度会いたい。

お互いの尊重。僕は初めてそれに抗おうとしていた。

カミソリを左の手のひらに当て、深呼吸の後に、ぐっと手のひらの中心に突き刺す。

刃深く突き刺さり、痛みに声が漏れる。しかし、不思議と赤い血液が流れるようすはない。

そして、そのまま、カミソリを肘に向けて引き下ろす。

強烈な痛みが、刃を入れた左腕だけでなく、内側から身体を貫く。カミソリを引き下ろしていくにつれて、カミソリの先から茶色い羽毛が吹き出していく。足の指先が強く引っ張られ、伸びていく。ツメは鋭く尖っていき、うろこのようなものに覆われていく。激しい吐き気とともに、喉の奥から何かがせり上がってくる。その勢いで口先が前に伸びているような感覚があるものの、全身の痛みとともに意識が薄れていく中で、確認することができない。

彼女のことを考える。

きっと見つけることは難しいだろう。それでも、いつかきっと……



**



春の暖かい風がふき注ぐ公園。青年はベンチで木々を見つめる。

1羽のヒバリが、空高く飛び上がりながら、キューキューと誰かに呼びかけ続けていた。

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