魔王の間に入ると、魔王が勝手に死ぬんですが(※仕様)

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プロローグ

魔王城、最上階。


黒曜の床は割れ、壁の彫刻は溶け、柱の一部は焼けたのではなく削れたみたいに欠けていた。

戦いのために作られた場所じゃない。

魔法のための部屋が、戦場に変わった。


俺は立っているだけで精一杯だった。

鎧の内側で血がぬるく流れる。息を吸うたび胸がきしむ。

剣の柄が汗で滑るのに、指が言うことをきかない。


それでも、目の前の男から目を離せなかった。


魔王。

黒い外套は裂け、片目の周りに血が走っている。なのに立ち姿は崩れない。

目だけが、妙に静かだった。


「……ここまでか、勇者」


「まだだ!」

声が掠れた。負け惜しみじゃない。気勢を上げないと膝が折れそうだった。


俺は剣を持ち上げる。聖剣ラグナの刃先に光を集める――はずだった。


光が、ふっと薄くなった。

「……っ?」


噛み合わない。

指先が冷える。

最近、各地で起きているという魔法の不発。

聞いた話だと思っていた。それが今、俺の切り札を食った。


魔王は詰めてこない。

殺せる距離なのに、殺さない。

それが一番、気持ち悪かった。


「……なんで、来ない」

問いが漏れる。自分でも情けない声だと思った。


魔王の視線が、ほんの少し揺れた。

悲しみでも怒りでもない。乾いた揺れ。

長い時間を擦り切らせた者の、摩耗の揺れだった。


そして、魔王が構えを変えた。

片手を前に出し、空間を握り潰すように指をゆっくり閉じる。


ぞわり、と背骨が鳴った。

知っている魔法じゃない。いや、魔法と呼んでいいのかも分からない。


「やめろ!」

俺は踏み込んだ。止める理由なんて言葉にならない。

ただ、止めなければいけないと体が先に動いた。


叫んだ瞬間、俺の内側が、先に弾けた。

派手な爆発音はない。炎もない。

心臓が裏返る。肺が縮む。視界が上下反転する。胃の底が持ち上がり、喉が熱くなる。


(――やられた)

そう思ったところで、音が途切れた。


俺の声も、石のきしみも、呼吸も。

途中で断線する。

世界の配線が切れたみたいに、全部が“途中で終わる”。


色が抜ける。

黒曜の床が灰色になる。血の赤が黒い染みに変わる。魔王の輪郭が薄くなる。

熱が消える。

痛みだけが置き去りになる。


そして

世界が、途切れた。

糸を切られたみたいに、意識が落ちた。


眩しさで目を開けた。

青空。白い石畳。噴水。旗。人垣。歓声。


王都の大聖堂前だ。

見覚えがあるどころじゃない。

さっきまでの戦場が嘘みたいに、ここは完璧に平和だった。


神官が俺の手を高く掲げる。

手の甲に、黄金の紋章が淡く光っていた。


「勇者さま! あなたが、勇者です!」


歓声が爆発する。花びらが舞う。誰かが俺の背中を叩く。名前を呼ぶ声が重なる。


「クロノス!」

「すげえ……本当に選ばれたんだ!」

「勇者さま!」


俺は笑えなかった。

胸が痛い。息が詰まる。

さっきの弾けた感覚が、まだ奥に残っている。

体のどこかが、まだ戦場のままだ。


(……俺、死んだ?)


魔王の手。指が閉じた。

次の瞬間、内側が弾けた。

思い出そうとすると、頭の奥が拒絶する。


神官が優しく言った。

「恐れることはありません。勇者さまは魔王を討伐し、世界を救うお方なのですから」


魔王。

その単語だけが、刃みたいに胸に刺さった。


……また行く。

行かなきゃいけない。


理由は分からないのに、体が先に知っている気がした。

足が勝手に、あの黒い部屋へ向かう道を探している。


俺は空を見上げた。

青空はどこまでも澄んでいて、何ひとつ間違っていないように見える。

なのに、その平和の底に、ひび割れみたいな違和感が一本走っている。


鐘が鳴る。

祝福の音のはずなのに、どこか重い。

罰みたいに。


俺はその音を聞きながら、まだ分からないまま前へ進む。


勇者クロノスとして。

もう一度、魔王に会うために。


そして今度こそ――

……今度こそ、何を?


自分の考えの最後だけが、そこだけ空白だった。

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