E-ROCK / Blue Floyd
@Ryu-Maru
第1話 BB誕生
街外れの残響
東京の夜は、まだ眠らない。
高層ビルのネオンが薄雲を染め、
幾千のヘッドライトが、川のように流れていた。
空を滑るように、視点は降りていく。
雨上がりの舗道。
赤と青の灯りが水たまりに滲み、
その奥で、小さなライブハウスの看板が揺れていた。
――Live House ARK。
キャパ二百人ほど。
名もない若いバンドマンたちが、プロという言葉に手を伸ばす場所。
ここは登竜門であり、試練場であり、夢の墓場でもある。
りゅうは、この箱の“影のギタリスト”だった。
出演バンドに欠員が出たときのヘルプ。
編曲やアレンジの代行。
時には、即席の編成でステージに立つこともある。
自分のバンドは持たない。
どこにも属さず、どこにでも現れる。
完全フリーのギタリスト。
彼の音は、すぐに分かった。
青く、深く、情熱的。
一音鳴っただけで空気の色が変わる。
いつしか、そのトーンはこう呼ばれるようになった。
――青い閃光。
その音に惹かれて、
バンドよりも彼を目当てに足を運ぶ客すらいる。
メインゲートが開く。
煙草とアンプの匂い。
まだ熱を持った残響が、夜へと流れ出した。
りゅうは最後の曲を終え、
アンプの余熱を背に、静かにステージ裏へ下がる。
照明の残り火が壁を薄く染め、
そこには夜の温度だけが残っていた。
その奥に――
壁にもたれ、右膝を立てて座る一人の女がいた。
若く大柄でグラマラス、存在そのものに影がある。
レザージャケット。
湿った髪。
大きなブラウンの瞳。
褐色がかった肌が、
残光を受けて金の粒のように光っている。
その佇まいには、言葉より先に“物語の匂い”があった。
「……その音、ズルいね」
低く、かすれた声。
挑むようでいて、どこか寂しい。
「胸から、離れないじゃん」
りゅうは足を止めた。
「ねぇ」
女は顔を上げる。
「あたしに、ギター教えてくんない?」
りゅうは、わずかに眉を上げて笑った。
「初対面だよな? ……いきなりだな」
女は肩をすくめる。
「いいじゃん。あたし、ずっとあんたの音、知りたかったんだ」
その目は、
ステージに残った残響よりも、ずっとまっすぐだった。
美波 Maria
彼女の名は、美波(みなみ)Maria。
父は日本人、母はフィリピン人。
その血が溶けあった肌は夕暮れのように深く、
海の底に差す微かな陽のように温かかった。
「……あたし、昔から浮いてたんだよ。
ガタイがいいとか、肌が黒いとか……
そんなことばっか言われてさ。」
笑っているように見えたが、
瞳の奥は凍ったままだった。
「いつの間にか“BB”って呼ばれてた。
“Black Ball”。
転がって止まれない、どうしようもない奴って意味だってさ。
……笑っちゃうよね。ひどい話。」
その言葉が空気に溶けた瞬間、
りゅうは胸の奥で、
小さな、でも確かな“音”が鳴るのを感じた。
彼女がここに来たのは──
もはや偶然ではなかった。
控室へ案内されたMariaは、
黒いLes Paul Custom が入ったケースを見つめていた。
りゅうはケースを開くと、
漆黒のLes Paul──Black Beauty──を取り出す。
黒い塗装は鏡のように二人を映し、
控室の光が青白く反射した。
「これが俺の相棒だ。
1996のLes Paul Custom──Black Beauty。
古いが、こいつにしか出せない音がある。」
Mariaは息を呑む。
「……綺麗だね。
あたしには似合わないけど。」
「誰が決めた?」
りゅうは軽く弦を鳴らす。
空気が震え、二人の距離が近づく。
「君の中にも、ちゃんと鳴ってる音がある。
それを信じればいい。」
Mariaは視線を落とす。
その肩には、長い年月の重さが乗っていた。
「……あたしさ、逃げてばっかだった。
笑われて、ムカついて……
それでも歌、やめられなかったんだ。
バカみたいでしょ。
あんたのギターもそう──あの音……。」
りゅうは黙って聞いていた。
遠くでアンプが微かに唸り続けている。
ふと、背中を押すような気配がした。
理由も、正体もわからない何か。
そして、りゅうは思わず言葉にしていた。
「……このギターを、君に預けるよ。」
Mariaが顔を上げる。
「教えてやるよ。僕でよければな。」
自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。
それは直感であり、運命だった。
「このギター、ネックが二回折れてる。
でも、何度でも鳴る。
俺より頑丈で……優しい。」
Mariaの唇が震えた。
「……そんな、大事なものを……」
「大事だからさ。」
彼が差し出すギターは、
まるで記憶そのもののように重かった。
Mariaの両手がその重みを受け止めた瞬間、
一筋の涙が落ちた。
りゅうはその涙を見つめ、
静かに呟いた。
「壊れたものは、美しくなれる。」
そして──
「BBって呼ばれてるんだろ。」
Mariaは涙を拭き、かすかに笑った。
「うん……“Black Ball”ってね。」
りゅうはギターを光にかざす。
「……違う。
お前のBBは、今日からこのギターと同じ──Black Beautyだ。」
「……Black Beauty?」
少し震える声。
りゅうは頷く。
「光を吸い込んで、美に変える。
それが、お前の音だ。」
その瞬間、
Mariaの胸の奥で
何かが静かに再生した。
しばらくして、
彼女はふっと笑った。
「……悪くない。
BBって名前、初めて好きになれそう。」
その笑みは、
今日初めて“自分に対して優しい”表情だった。
Mariaはギターを抱きしめるように持ち、
腕に伝わる重みを確かめた。
「……重いね。」
「音は軽くない。」
りゅうは笑って、
彼女の指の位置をそっと直す。
初めてのコード。
指が震え、弦が痛い。
ジャ……ッ
かすれた音。
「Fってやつ、ムズいじゃん。」
「誰でも最初はそうだ。」
もう一度、彼女は指を置く。
呼吸をひとつ整える。
ン……ッ
さっきより少しだけ綺麗な音が鳴った。
その一音が、
夜を裂き、
街のどこかに眠っていた記憶を揺らした。
“Black Ball”ではなく、“Black Beauty”。
その名前が静かに彼女の中に根を張る。
控室の外では、
スタッフの笑い声が小さく響いた。
そして、夜は静かに深まっていく。
その音が、やがて世界を変えていくことを、
まだ誰も知らなかった。
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