貞操逆転世界で一文無しの僕を拾ったのは、太陽みたいなS級美少女(聖女/肉食系?)でした。

秋葉原うさぎ

第1話:拾われたのは、一文無しの国宝でした。

太陽みたいな美少女でした。

〜ただし、彼女の目は遭難者を心配する目じゃなくて、獲物を狙う目だよね?〜



 喉が、焼けるように渇いていた。


 ジリジリと照りつける太陽。

 肌を直接炙られるような、暴力的とさえ言える日差し。

 視界の端で、陽炎がゆらゆらと揺れている。世界が熱で歪んで見える。

 吸い込む空気すら熱湯のように肺を焼き、吐く息は熱を持ったまま口内に留まる。


「……ここ、どこだ……?」


 乾いた唇から漏れたのは、情けないほど掠れた声だった。

 アスファルトではない、赤茶けた踏み固められた土の道。

 スニーカーの薄い底から伝わる地熱が、じわじわと体力を、そして思考能力を削り取っていく。


 僕は重い瞼をこじ開け、ふらふらと上半身を起こそうとして――平衡感覚を失い、無様に膝をついた。

 膝に食い込む小石の痛みが、これが夢ではないことを残酷に告げている。


 見渡す限りの田園風景。

 のどかだ。あまりにも平和で、残酷なほどに美しい景色だ。

 風に揺れる金色の麦畑――いや、よく見れば麦ではない。もっと背が高く、穂先から微かに青白い燐光を放つ不思議な植物の海だ。それが風に吹かれるたび、シャラシャラと金属的な音を奏でている。

 遠くに見える、ヨーロッパの片田舎を思わせるレンガ造りの建物たち。煙突から細く煙が立ち上っているのが見える。

 空は抜けるように青く、雲一つない。日本の空よりも色が濃く、そしてどこか「高い」気がする。


 最高のピクニック日和だ。

 もしも、ここが僕の知っている地球で、僕の手元に水筒の一つでもあればの話だが。


「……詰んだ、かも」


 僕は震える手でズボンのポケットを探り、そして絶望的なため息をついた。

 右のポケット、空っぽ。

 左のポケット、空っぽ。

 お尻のポケット、やっぱり空っぽ。


 スマホがない。

 財布がない。

 身分証明書も、家の鍵も、眠気覚ましのミントタブレット一粒さえもない。


 あるのは、着の身着のままの白Tシャツと使い古したジーンズ、そして履き慣れたスニーカーだけ。

 まさに正真正銘の『一文無し』だ。


 記憶を必死に手繰り寄せる。

 ついさっきまで、僕は日本のコンビニで深夜の夜食を選んでいたはずだった。

 明日の大学のレポートに向けて、夜食を豚骨ラーメンにするか、それともあっさり醤油にするか。おにぎりの具は鮭か明太子か。そんな平和すぎる悩みを抱えていたはずだ。

 なのに、店の自動ドアを抜けた瞬間、世界が裏返るような強烈な目眩と浮遊感に襲われて――。

 気づけばこの、ザ・サバイバル状態だ。


 いわゆる『異世界転移』というやつだろうか。

 ラノベや漫画で何度も見たシチュエーション。憧れたことだって、正直一度や二度はある。

 だとしても、現実はあまりにも不親切すぎる。

 状況を説明してくれる女神様もいなければ、チート能力をくれる親切なおじいさんもいない。初期装備も所持金もゼロ。

 RPGなら、開始一秒でリセットボタンを押すレベルの無理ゲーだ。


「水……」


 思考が鈍る。舌が上顎に張り付く。

 汗はもう出ない。脱水症状の一歩手前だ。

 とりあえず、人家を探さなくては。

 遠くに見えるあの建物を目指そう。言葉が通じればいいけど、通じなかったら土下座でもボディランゲージでもなんでもして水を乞うしかない。不審者扱いされて警察を呼ばれるのがオチかもしれないが、このまま野垂れ死ぬよりはマシだ。


(……死にたく、ないな)


 重い足を引きずり、僕はあぜ道を歩き出した。

 一歩進むごとに、鉛のような疲労感が全身にのしかかる。

 日本の夏よりも紫外線が強い気がする。肌を突き刺してくるようだ。

 お気に入りの白いTシャツは、汗と砂埃ですっかり汚れ、見るも無惨な状態になっているだろう。


 視界が明滅する。黒いノイズが走る。

 あ、これダメなやつだ。

 意識のブレーカーが落ちる寸前、僕は自分の不運を呪った。

 せめて、最後に何か美味しいものを食べたかった。

 せめて、一度くらい彼女を作ってみたかった。


 意識が暗闇に沈みかけ、地面に倒れ込もうとした、その時だった。


 キキィイイイイッ!!!!

 ズザザザザザッ!!


 背後から、鼓膜をつんざくような激しいブレーキ音が響き渡った。

 土を削り、石を弾き飛ばす荒々しい音。

 振り返る気力もなかった。

 すぐ横の地面が爆発したかのような轟音と、巻き上がる凄まじい砂埃。

 巨大な鉄の塊が、僕のすぐ真横に滑り込んできていた。


「うわっ……!?」


 強烈な風圧に煽られ、僕はもつれるように尻餅をついた。

 ゴホッ、ゴホッ。

 舞い上がった赤茶色の土煙にむせながら、僕は涙目でその正体を見上げる。


 車だ。

 だが、僕の知っている乗用車とは明らかに違う。

 日本の軽トラをベースに、軍用装甲車とモンスタートラックを悪魔合体させて、さらに魔法的な何かで無理やり強化したような、無骨で戦闘的なオフロード車。

 タイヤは僕の腰ほどの高さがあり、深い溝が刻まれている。泥除けには見たこともない言語のステッカー――剣と薔薇が交差したマーク――が貼られている。

 ボンネットからは、陽炎のような熱気が立ち上っていた。エンジン音が、まるで猛獣の唸り声のように低く響いている。


 轢かれるところだった。

 心臓が早鐘を打つ。恐怖で指先が震える。

 文句の一つも言ってやりたいところだが、喉が張り付いて声が出ない。

 それに、こんなイカつい車に乗っているのがどんな荒くれ者か分からない。異世界の盗賊か、あるいはヒャッハーな無法者か。


 バンッ!


 運転席のドアが乱暴に開かれた。

 僕は身を縮こまらせる。殴られる。あるいは、身ぐるみを剥がされる。

 最悪の想像が脳裏をよぎり、覚悟を決めて目を閉じた。


「――嘘っ!?」


 聞こえてきたのは、鈴を転がすような、あまりにも美しい、銀鈴の如き声だった。

 恐る恐る目を開ける。

 そして、言葉を失った。


 そこに立っていたのは、盗賊でも荒くれ者でもなかった。


 太陽だった。


 いや、比喩ではなく、本当にそう見えたのだ。

 逆光を背負い、日差しを反射してキラキラと輝く、黄金色のショートボブ。

 夏の空を切り取ったような、吸い込まれそうなほど澄んだスカイブルーの瞳。

 健康的な小麦色の肌は、汗ばんで艶やかに光っている。

 白いタイトなTシャツからは、豊かな胸の膨らみが自己主張し、デニムのショートパンツからは、鍛え上げられたしなやかな太ももが伸びている。


 めちゃくちゃ可愛い女の子だった。

 アイドルのような整った顔立ちだが、それ以上に圧倒的な生命力(オーラ)が溢れている。

 腰には、無骨な革のベルトと、本物に見える剣を吊り下げている。それがコスプレではなく、実用品としての重みを放っていた。

 彼女は、まるでこの世界の主人公みたいに輝いていた。


 彼女は車のドアに手をかけたまま、呆然と僕を見下ろしていた。

 その大きな瞳が、驚愕に見開かれている。

 美しい唇が半開きになり、ポカンとしている。


(……怒られるのかな)


 道の真ん中をふらふら歩いていたのは僕だ。邪魔だったに違いない。

 こんな強そうな人が相手だ、下手に反抗したら斬られるかもしれない。

 僕は慌てて立ち上がろうとして――足に力が入らず、再び地面に崩れ落ちた。


「あ、すみま、せ……」


 謝ろうとした瞬間。

 彼女が弾かれたように動き出した。


「――嘘嘘嘘っ!? マジで!?」


 ドタドタドタッ! と、その可憐な見た目にそぐわない凄い足音を立てて、彼女が駆け寄ってくる。

 そして僕の目の前でスライディングするように膝をつき、壊れ物を扱うような、それでいて絶対に逃さないような手つきで僕の肩をガシッと掴んだ。


「き、君っ!! 大丈夫!? 怪我はない!?」

「え……あ、はい……」

「意識はある!? 名前は言える!? ここがどこか分かる!? 指は何本に見える!?」


 矢継ぎ早の質問。

 ものすごい剣幕だ。怒っているわけじゃなさそうだけど、必死さが尋常じゃない。

 至近距離にある彼女の顔があまりにも整っていて、僕はドギマギしてしまう。

 汗と、柑橘系のような甘酸っぱい香りが混じった匂いが、鼻腔をくすぐる。それは強烈に僕の本能を刺激した。


「な、名前は、相川、湊です……。怪我は、たぶん、ないです……」

「ミナトくん……! ああっ、よかった、共通語(ことば)が通じる……! 喋れるんだ……!」


 彼女は深く安堵の息を吐き、へなへなと座り込んだ。

 そして、獲物の品質を確認するように、僕の顔、首筋、腕、足をジロジロと凝視し始める。

 その視線が、なんだか熱っぽい。

 値踏みされているような、博物館の展示品を見ているような、それでいて――極上のステーキを前にした時のような。


 彼女の視線が、僕の喉元で止まる。


(……信じられない。こんなド田舎の街道の真ん中に……。しかも無傷で……)


 彼女の心の声など聞こえるはずもないが、その瞳孔がカッと開いているのは分かった。


(黒髪黒目……。この辺りじゃ絶対に見ない、異国情緒あふれる絶滅危惧種(レア)。

 首輪(チョーカー)なし。所有タグなし。

 耳の裏を確認……隷属の魔法印(タトゥー)もなし。

 匂い……他の女の香水の匂い、ゼロ。無臭。いや、ほんのり汗の匂い……これってフェロモン?

 なにこれ、脳が痺れるくらいいい匂いなんだけど!?

 ――完全に『野生(ノラ)』だわ……!)


「あの、すみません。僕、気づいたらここにいて……喉が渇いてて……水とか、持ってませんか?」

「あっ、ごめんね! 気が利かなくて! ほら、これ飲んで!」


 彼女は腰につけていた革製の水筒を慌てて外し、差し出してくれた。

 僕は礼もそこそこに蓋を開け、貪るように喉に流し込む。


 ゴクッ、ゴクッ。


 ぬるい水だったが、今まで飲んだどんな高級飲料よりも美味しかった。

 干からびた細胞の一つ一つに染み渡っていくようだ。

 口の端から水がこぼれ、首筋を伝って鎖骨へと流れていく。Tシャツが濡れて肌に張り付く。


「ぷはっ……! 生き返った……。ありがとうございます」


 僕は手の甲で口元を拭い、大きく息をついた。

 ふと見ると、彼女が僕の喉仏あたりを一点に見つめ、ゴクリと生々しい音を立てて喉を鳴らしていた。

 その目はとろんとしていて、頬が上気している。


(……やばい。水を飲むだけでこんなにエッチだなんて。

 白い喉。動く喉仏。濡れた唇。

 無防備すぎる。自分がどれだけ『美味しそう』か分かってないの?

 今すぐ押し倒して、その唇についた水滴を舐め取りたい……。

 だめ、落ち着け私。ここで襲ったらただの暴行魔。まずは保護して、恩を売って、外堀を埋めて……)


「あの……?」

「はっ!?」


 僕が不思議そうに声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、ブンブンと首を振った。


「ううん、いいの! もっと飲む? お腹は減ってない? 干し肉あるよ? 柔らかいパンもあるよ?」

「いえ、水だけで十分です。本当に助かりました……」


 僕は水筒を返し、改めて彼女に向き直った。

 落ち着いて見れば、彼女は僕と同い年くらいか年下だろうか。16歳前後。

 屈託のない笑顔を浮かべていて、見ているだけで元気を貰えそうだ。

 さっきの熱い視線は、きっと僕の気のせいだろう。渇きで幻覚を見ていたのかもしれない。


「僕は湊です。貴方は?」

「私はルミナ! ルミナ・ソレイユ。この近くの街で冒険者……みたいなことをやってるの」

「ルミナさん。素敵な名前ですね。太陽みたいだ」


 僕が素直にそう言うと、ルミナさんは「ふえっ!?」と素っ頓狂な声を上げて、顔を茹で蛸のように真っ赤にした。

 耳まで赤い。


「す、すてき……!? た、太陽……!? そ、そんな、出会って数分で口説き文句だなんて……!」

「え? あ、ごめんなさい。馴れ馴れしかったですか?」

「ち、違うの! 嬉しい! めっちゃ嬉しい! ミナトくんの声、すっごく綺麗……鼓膜が妊娠しそう……」

「はあ……?」


 鼓膜が……なんだって?

 独特すぎる表現をする人だ。異世界の慣用句だろうか。

 でも、悪い人ではなさそうだ。こんな一文無しの不審者に貴重な水をくれて、ここまで心配してくれるなんて。

 この異世界にも、女神様はいたんだ。


 僕は意を決して、現状を相談することにした。

 彼女なら、きっと助けになってくれるはずだ。


「あの、ルミナさん。厚かましいお願いなんですが、街まで乗せてもらえませんか? 実は僕、財布も何もなくて……一文無しなんです。警察とか、役所に行きたくて」


 僕がそう切り出すと、ルミナさんの表情が一変した。

 さっきまでのふんわりしたデレデレ顔が消え、歴戦の狩人のような鋭い表情になる。

 空気が、ピリリと張り詰めた。


「……一文無し、なの?」

「はい。お恥ずかしながら」

「身分証(ID)も? お金も? 住む場所も?」

「はい。何もないんです。完全に一人です」


 ルミナさんはゴクリと喉を鳴らした。

 そして、僕の手をガシッと両手で包み込んだ。

 熱い。彼女の手のひらは、驚くほど熱くて、そして少し震えていた。

 それは恐怖の震えではない。武者震いというか、抑えきれない興奮の震えだ。


(……神様。ありがとうございます。

 一生分の運を使い果たしたかもしれない。

 『後見人なし』。『資産なし』。『住居なし』。

 これってつまり……『拾ったもん勝ち』ってことじゃん!!!!)


 彼女の脳内で、勝利のファンファーレが高らかに鳴り響いていた。

 だが、そんなことはつゆ知らず、僕は彼女の真剣な表情に怯えていた。


「ミナトくん。よく聞いて」

 ルミナさんが、低い声で囁く。誰にも聞かせないように。

「は、はい」

「ここはね、すっっっごく危険なエリアなの」

「えっ」

「この辺りには『野獣』が出るの。お腹を空かせた、どう猛なハイエナみたいな野獣がうようよしてるの」


 野獣。

 僕は背筋が寒くなった。

 熊か。それとも狼か。あるいはファンタジー特有のモンスターか。


「そ、そうなんですか!? 全然気配がなかったから……」

「うん。特にミナトくんみたいな……その、白くて柔らかそうで美味しそうな男の子は、格好の餌食になっちゃうの。骨までしゃぶられちゃうよ? 文字通り、朝まで寝かせてもらえないくらい、食い尽くされちゃうの!」

「ひえっ……」


 骨まで。朝まで。

 異世界の野獣は執拗らしい。

 丸腰の僕が遭遇したら、一瞬で人生終了だ。


「だからね、一人で歩くなんて絶対ダメ! 自殺行為だよ! 役所なんて行ったら、あっという間に『公的保護』という名の檻に入れられて、一生自由なんてないんだから!」

「ど、どうすれば……」

「私に任せて!」


 ルミナさんはドンと自分の胸を叩いた。

 Tシャツ越しに、豊かな胸がたわんと揺れる。

 僕は目のやり場に困って、慌てて視線を逸らした。

 その反応を見て、ルミナさんが口元をニヤリと歪めたのを、僕は見逃した。


「私が保護してあげる! 家まで送るから……ううん、しばらく私の家(シェルター)で面倒見てあげる!

 困った時はお互い様だし、これも何かの運命……じゃなくて、必然の縁だから!」


「ええっ!? い、いいんですか? 出会ったばかりの、どこの誰とも分からない男ですよ? 迷惑じゃ……」

「迷惑なわけないでしょ! ていうか、私が放っておけないの!

 さあ、早く乗って! 他の……性欲に飢えた野獣に見つかる前に!」


 ルミナさんは有無を言わさぬ勢いで僕の腕を引き、助手席へと押し込んだ。

 彼女の力は驚くほど強かった。

 細腕に見えるのに、僕の体なんて羽根のように軽々と扱われる。抗う隙なんてない。


 ガチャリ。

 重厚なドアが閉められる音が、妙に重々しく響いた。

 それはまるで、檻の鍵が閉まる音のようだった。


 車内は冷房が効いていて涼しかった。

 外見の無骨さとは裏腹に、内装は高級感のある革張りだ。

 そして、狭い密室に充満する、ルミナさんの甘い香り。

 柑橘系と、フローラルと、そして彼女自身の体臭が混ざったような、男を狂わせる匂い。


 運転席に乗り込んできたルミナさんが、僕の方に身を乗り出してくる。


「あ、シートベルト! 忘れてるよ!」

「あ、自分でやります……」

「いいからいいから! 私がやるの! じっとしてて!」


 彼女の顔が近づく。

 近い。近すぎる。

 吐息がかかる距離だ。

 彼女のサラサラした金髪が、僕の頬をサワサワと撫でる。

 Tシャツの襟元から、健康的な鎖骨と、その奥の深い谷間がチラリと見えて――。


「んっ……」


 ルミナさんが、僕の胸元で小さく艶っぽい声を漏らした。

 シートベルトを引こうとして、動きが止まっている。

 彼女の顔が、僕の首筋あたりに埋まっているような体勢だ。


「……いい匂い……スーハー……」

「え? ルミナさん?」

「あ、うん! なんでもない! なんでもないよ!」


 彼女はビクリと反応し、名残惜しそうに顔を上げ、カチャリとベルトを固定した。

 その顔は、さっきよりも赤くなっている気がする。

 目は潤んでいて、荒い息を吐いている。


「……ミナトくんの匂い、すごい。クラクラする……これが未開封の魔力……?

 我慢できるかな私。……いや、我慢しなきゃ。ここで襲ったらただの犯罪者……まずは信頼関係(きせいじじつ)を作ってから……」


 彼女はブツブツと呪文のようなことを呟き、自分の太ももをつねっている。

 大丈夫だろうか。熱中症だろうか。


「ルミナさん? 顔が赤いですけど……」

「へ、平気! エンジンかけるね! しっかり捕まってて!」


 彼女は誤魔化すようにキーを回し、アクセルを吹かした。

 ドドドドド……と、野獣の咆哮のようなエンジン音が響く。

 車が急発進する。

 背中がシートに押し付けられる加速G。


 窓の外の景色が流れていく。

 僕はシートに身を預け、安堵していた。


 本当に良かった。

 異世界は過酷だけど、こんなに親切で、綺麗で、頼りになる人に巡り会えたんだ。

 野獣に食べられる前に、彼女が助けてくれた。

 一文無しの僕を、家に泊めてくれるなんて。なんて慈悲深い人なんだろう。


 ――そう、僕は心の底から感謝し、感動していた。

 だから、気づかなかったのだ。


 すれ違う対向車の女性ドライバーたちが、助手席の僕を見て「えっ、男!?」「ちょ、あいつ助手席に男乗せてるぞ!」「どこで拾ったんだズルい!」「殺してでも奪え!」と血走った目で振り返っていたことに。


 そして何より。

 ハンドルを握るルミナさんが、バックミラーをチラリと確認し、後続車がいないことを確認してから、勝利を確信したような獰猛な笑みを浮かべていたことに。


 彼女の瞳は、もはや遭難者を心配する聖女のそれではない。

 完全に、極上の獲物を巣穴に持ち帰る肉食獣の目だった。


(……勝った。勝った勝った勝った勝った!

 第一発見者特権ゲット!

 誰も見てない、唾もつけられてない、手垢もついてない、完全な新品(バージン)!

 しかもこの魔力、このフェロモン……S級? いや国宝級!?

 街の男たちなんて目じゃないわ。あんな擦れた連中とは違う、純度100%の原石!

 やばい、鼻血出そう。下腹部が熱い。

 誰にも渡さない。絶対に私が囲う。私が養う。私が守る。私が食べる。

 神様、一生いい子にしますから、この奇跡を私にください……!)


 彼女のスマホのナビ画面には、通常のマップではなく『自宅(シェルター)への最短隠蔽ルート』が表示されている。

 そして、ダッシュボードのグローブボックスの中には、まるで最初からこの時のために用意されていたかのように、『婚姻届(記入済み・保証人捺印済み)』と書かれた書類が束になって入っていることを、僕はまだ知る由もなかった。


「ミナトくん、お腹空いてない? 家に着いたらご馳走作るね!」

「え、いいんですか? すみません、何から何まで……」

「いいのいいの! ステーキにする? それとも……私がいい? あ、冗談冗談!

 お風呂も一番風呂に入ってね! 背中流してあげる……のはまだ早いか。ああ、忙しくなりそうっ!」


 ルミナさんは上機嫌に鼻歌を歌いながら、アクセルをさらに踏み込む。

 その横顔は、まぶしいくらいに輝いていた。

 太陽のような笑顔の下に、底なしの独占欲を隠して。


 こうして。

 僕の、一文無しからの異世界生活が始まった。

 まさかここが、女性が肉食獣のように男性を求め、男の価値が宝石よりも高い、貞操観念がガッツリ逆転した世界だなんてこと。

 そして、この車が『走る監獄』であることなど、露ほども知らずに。


 僕を乗せた鉄の野獣は、夕暮れの荒野を、獲物を巣へと運ぶ獣のように軽快に駆け抜けていった。


(第1話 終わり)

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