沈黙の宰相室ー代筆から始まる王国恋愛譚ー

manaka

第1話 呼び出し

 重たいまぶたを手で擦りながら、歪む視界からどうにか抜け出そうとする。

 机の上には、条文の写しと過去の外交記録。紙はすでに手垢で黒ずんでいた。


「……もう少し。」


 独り言のように呟き、私はペンを進めた。


 上司の机には、未提出のままの書類が山積みになっていた。三日前から高熱で倒れ、今日中に戻る見込みはない。それでも、この文書だけは期限を延ばせなかった。

 隣国への返答期限は、夜明けだ。


「確実に間に合わせる。」


 そう決めてから、私は一行ずつ、慎重に言葉を選んだ。


 ――これは、越権だ。

 ――でも、書かないという選択肢はない。


 記憶の中にある条文を引き出し、判例と照らし合わせ、論理の隙間を埋める。

 明かりの少ない室内でひとり、ただ国のためだけに書いた。


 提出したのは、夜明け前だった。


 ***


 翌朝、文官局の空気は妙に張りつめていた。

 誰もが小声で話し、廊下を歩く足音さえ抑えている。

 その理由を、私はほどなく知ることになる。


「……第三課の見習い、呼ばれてるらしい」


「宰相室から、直接だって」


「あいつも、終わったな」


 書類を抱えた同僚が、私から目を逸らした。

 まぁ、こうなるだろうとは予想していたが。


 呼びに来たのは、王城付きの伝令だった。


「宰相閣下がお呼びです。至急」


 逃げ場はない。

 私は一礼し、机に書類を戻した。


 廊下を歩く間、頭の中で考えを巡らす。どんな叱責を受けることになるか、どんな処罰がくだされるか...。


 ――しかし、私がしたことは間違っていたとは思わない。


 小さく息を吐く。

 私は貴族出身だ。私の仕事をただのお嬢様のおままごとと考えている者も少なくない。


 それでも文官として働いた。私の力がどこまで通用するのか知りたい。貴族としてではなく、文官として誰もが認める存在になりたい。そしてゆくゆくは、この王国で女性がもっと活躍できる社会を築いていく。


 ――だからこそ、こんなところで失敗するわけにはいかない。


 西棟に近づくにつれ、人影が減る。

 石造りの廊下は冷たく、足音がよく響いた。


 宰相執務室の扉の前で、足が止まる。

 ここから先は、王国の中枢だ。


 私は背筋を伸ばし、深呼吸をした。

 覚悟はできている。

 書いた以上、責任は取らなければ。


 「入れ。」


 扉の向こうから聞こえたのは、低く冷たい声。

 その声に急かされるように、扉を叩いた。


「――失礼いたします。」


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