BL短編集
お肉にはワサビ
1.Between the Sheets〜ベッド(寝室)ではじまりキスで終わる〜
ルーティン‐Crema‐ (恋人/年下保育士×年上軍籍)
彼の朝は早い。
軍籍ではあるものの、彼は本部の人事局勤務なので、早朝トレーニングとは無縁だ。一般的なサラリーマンと同じようにコーヒーを飲んで朝刊に目を通し、愛する人と軽いスキンシップを楽しむくらいの時間はあるはずなのに、それらは彼の朝のルーティンに含まれない。
おでこへのキスが目覚まし時計のかわり。寝ぼけ眼に映るのは、髪を整え、しわのないスーツに袖を通した完璧な彼の姿。
いつもそうだ。彼はおれの寝顔を眺めてから出る。それならばもう少し一緒に寝ていてくれればいいのに。
「たまには、軍服姿、見たいなあ」
口をついて出たくせに、おれの声はくぐもっていた。彼はふっと笑って肩をすくめる。
「もうニ年早く生まれるんだったな」
朝一番にきく彼の声は鳥のさえずりよりもクリアで、皮肉なのにぜんぜん意地悪じゃないんだ。
この国では二十歳になった男子は二年間の兵役に就く。義務を終えた彼はそのまま軍籍に留まった。おれが二十歳を迎えたのは翌年で、入隊式の会場担当だった彼の制服はすでにスーツにかわっていた。
彼はいつでもおれの先をいく。行くのだけれど、その前に。
おれに招かれて彼が身をかがめるのも、キスされた彼が困ったように微笑むのも、湿ったおれの舌先に彼が笑ったままやんわり唇を閉じるのも、歯を磨いてからするべきだったとおれが悔やむのも、毎朝のルーティン。
きょうもだめだった。いつになったら、おれは彼より早く起きられるんだろう? そんな甘えきったたおれの自責が、彼のスーツの袖口を引く。
「まだ居てよ」
「遅刻する」
「“シュシュ”に行かなきゃ間にあうよ」
「眠気覚ましに必要なんだ。ダブルショットのエスプレッソ」
「眠いならまだ寝よう」
「うちの上司は怒るとこわいんだよ」
以前、彼の職場に訪れたとき顔を合わせたことがある。背が高く、ピンヒールにストライプのパンツスーツ、濃いめのアイメイクが似合うブロンドの美人。彼は彼女より華奢なのを気にして隣に並びたがらなかったけれど、精悍な顔立ちのふたりの姿はエリート官僚の美男美女といったふうで、とても絵になった。思い出すと、エスプレッソより苦い気持ちが心にクレマをつくる。
彼はふっと笑って、おれのおでこに小鳥の啄みみたいなキスをする。彼といえどあやされるのはむず痒い。おれはおとななのだから。
離れていこうとする彼の背に言葉を投げる。
「朝ごはん、たまにはいっしょに食べよう。エッグベネディクトでも作るよ。コーヒーも淹れたてのやつ」
「そういうことはぼくより先に起きてから言うんだよ」
やっぱり、彼が言うと嫌味にきこえない。その証拠に彼はとても嬉しそうにこちらを見ている。まっすぐな青い目に吸い込まれてしまいたい。
わかってる、通りの角にあるカフェのエスプレッソにかなうはずない。あそこのバリスタは確かラテアートの世界チャンピオンだったから。いや、チャンピオンの弟子? どっちでもいい、勝てないのはわかってる。
だけど少なくともおれは、キャリアウーマンにだけは負けたくないんだ。おれの家庭的なところを見せてやる!
起き上がろうとするおれの胸板を、近づいてきた彼の手のひらがぐっと押し戻す。寝癖がついたおれの頭はあっけなく枕に沈んで、彼はまた目尻を下げた。
「連休中にしっかり心身を休めることも仕事のうちだ。きみ、このところ連勤だっただろう」
「休みなんてなくていいよ、おれ、バカだから元気だけが取り柄だし」
「だろうな。マイケルも元気?」
「ああ、うん。もうすっかりよくなったって」
「それは良かった。頼りにされてるんだ、きみも健康体でいないとな」
「……」
バカというところを否定してはくれないのか、と思いつつ、彼の口から出た名前に目の奥がつんとする。三日前の課外活動で怪我をしたマイケルが良くなったのは本当だ。本当だけど、よくないことは他にある。
彼の言う通り、おれは職場の同僚から頼りにされている方だ。でもそれは単に、女性ばかりの職場で力仕事や急なシフトの穴埋めを任せられる独身の男手は重宝されやすいというだけ。
それに職場のトラブルを打ち明ければちゃんと覚えていてくれて、帰ればこうして気にかけてくれる彼の存在があるからだ。おれ自身になにか特別な力があるわけじゃない、頑張れるのは、ただ子どもが好きだという一心だけだ。
好きというだけ、そう、入隊式で一目惚れした彼を追いかけて除隊後も軍籍に留まろうとしたおれを、彼は叱ってくれた。ガタイがいいだけで務まるところじゃない、きみなんかべそをかいて子どもたちに慰めてもらう方が似合ってる、と。
その激励があったからこそ、おれは自分自身のやりたい仕事に向き合うことができた。資格を取って働き始めると同時に彼に告白した。そして今や同棲しているなんて、夢みたいだ。
おれはいつでも彼に支えられているけれど、おれは彼にとってどんな存在になれているだろうか?
彼は仕事のことをあまり話題にしない。ちがう、本当はおれが避けているんだ。あの女上司がちらつくから。
怪我をしたマイケルの両親は、訴訟も辞さないとその日の内にものすごい剣幕で幼稚園に乗り込んできた。彼らの怒りは四人いた保育士の中の誰かを責めないと収まらなかった。同僚たちの前で、人づてに聞いたらしいおれのプライベートを暴露した。
『あなたゲイなんでしょう? うちの子に触らないでちょうだい、気持ち悪い!』
同僚たちは笑顔でフォローしてくれた。だけどあとで園長に謹慎の通告をくらったのは、おれ一人だけ。
『私たち職員に偏見がなくたって、親御さんもそうだとは限らないのよ。あることないこと変な噂がたつとお互いのためによくないでしょう、ね』
マイケルが軽症で済んだと知らされたときは心の底からほっとした。けれど、園長はバツが悪そうに視線をそらしたから、おれの来期の契約は、きっと更新されない。
窓の外から本物の鳥のさえずりがきこえて、はっと我に返る。髪をかき上げると、ドアの手前で腕組みをしてじっとこっちを見ている彼と目が合った。まるで早朝の、くたびれた月と雲が夜を連れて西へと流れ、元気いっぱいの太陽が東に昇るまで、そのあいだを静かに引き継ぐ、そんな澄み切った青。おれの好きな人。
「ぼくになにか言ってないことがあるだろ」
「えっ」
「誤魔化しても無駄だよ。きみはわかりやすいんだから」
ごまかしたりなんかしない、あなたのその目を見て、ごまかせるわけないだろ。笑って言おうとして、言葉に詰まる。なんて言えばいいのかわからない。なにを言っても、彼はおれから目を逸らさないとわかっているから。
口の中が乾いている。やっぱりうがいをしなくちゃ。おれは意を決して唾を飲み込み、
「園長に、同性愛者の保育士は困るって言われて、一週間の謹慎処分になった」
「それは本当か?」
彼の表情が一瞬で険しいものに変わったので、おれは慌てて付け加える。
「園児が怪我したんだから、
「それは、きみがそう思っているのか?」
「おれ、は……わからないよ、でも実際におれのことを気持ち悪いと感じる人がいるなら、そこにいるべきじゃないと思う」
彼の語気に視線を逸らしてしまうのも、声が尻すぼみになってしまうのも、言葉にした瞬間に少し楽になってしまうのも、ぜんぶぜんぶおれの弱さだ。たぐり寄せたデュベカバーにしわがついた。
理解されることが当たり前だとは思っていなかったけど、実際に面と向かって拒絶されるとやっぱり傷つく。
――彼は。職場に、あの女上司に、おれのことをどう打ち明けているのだろうか。おれのことが重荷になってはいない? 彼も同じように傷ついたりしてはいないだろうか、
いや。それならこんな話、するべきじゃない。
「きみはぼくが、この身体で陸軍志望だと言ったら笑うか?」
唐突な彼の問いかけが、ごめんの一言をおれの口のなかに押し戻した。
彼はうすく微笑んで、胸を張ってすらいて、おれに質問の意図を探らせる間も与えずまた訊いた。
「こんなヒョロヒョロの男に前線が務まると?」
「そんな、笑うわけないよ」
彼が自虐を口にしたことが不快で、むきになったように返す。言わせたのはおれだというのに。
そんなおれを肯定するかのように彼は頷いた。
「ぼくはぼく自身の意思で実戦部隊をあきらめて人事職を選択した。きみや他の誰かが笑ったから、あるいは笑わなかったからじゃない。だからきみ自身が保育士をやるか、やらないかだ。きみはどうなんだ?」
おれをまっすぐ見る、真剣な表情が、言葉にいっそう力強さを与える。彼を追いかけて仕事を選ぼうとしていたおれを叱ってくれたとき。同じことをおれはまたしようとしている。
彼のおかげで自分の足で立つことができた。そしてそのおかげで、あのときよりもっとずっと彼を好きになったんじゃないか。
「おれは天職だと思ってる」
口に出してから、天職という言葉の強すぎる響きに少しだけ慄く。ハッタリでも虚勢でもいい、彼に恥じない自分になりたい。逃げたくないんだ。
それでも、真顔のままの彼が次になにを言うのか、身構えた。
「そうか。ならぼくが養ってやるから辞めてこい」
「えっ?」
意外すぎる言葉に間抜けな声が出た。彼はふうと息を吐いてこちらに歩み寄る。
「相手を変えるより自分が変わったほうが早いだろう。そしてぼくはきみを手放すつもりがない。だからきみが辞めてこい。それとも」
ベッドサイドに膝をつき、まるで祈るような姿勢で彼は、おれを見上げるようにして顔を寄せる。
「きみがぼくを振る?」
――朝はいつでも来る、だから、いつでも変わらないと思っていたのに。取り残されて寂しいような、去ってしまった月や、あるいはこれから迎える朝日を恋い焦がれるような、そんな朝がこの人にあるなんて。
初めて彼を狡いと思った。おれができないと知っていながら、そんなことしないと言わせたいわけでもないのに。女上司と並んだ彼を見つめるおれは、こんな目をしていたのかとも思った。
おれの腕が引き寄せる前に、彼はすっくと立ち上がる。
「もちろんずっと扶養内というわけじゃない。次の職場では最初に打ち明けておくのもいいだろうな。なんならぼくが一緒に挨拶に行こうか」
「えええ、そんなことまでしなくていいよ!」
「そんなこととはなんだ。きみの一大事はぼくの一大事だ。苦労もともに分かち合いたい」
さらりと言い切って、眉根を寄せたまま大仰に腕組みをする。おれはぽかんと口を開けて彼を見上げた。腕を組んで背筋を伸ばしても、彼はやっぱり華奢なのだ。全身の力が抜けた。
「なんで、そんなドラマの主人公みたいなこと真顔で言えるんだよ」
「きみが鈍感だからだよ」
彼がやっと笑って、おれもやっと笑ったのだとわかった。失礼な、気恥ずかしいセリフを面と向かって言えてしまうほうが鈍感じゃないか。そうだよ、鈍感だからエスプレッソもダブルショットじゃなきゃ眠気がさめないんだ。
そうだ……そうか。エスプレッソしか頼まない彼には、“シュシュ”のバリスタの神業ラテアートなんて縁遠いじゃないか。
たまに一緒に行くとき、彼はいつでもおれのフラットホワイトができあがるのを一緒に眺めている。いや、神業ラテアートを眺めるおれを。
クレマの崩れたエスプレッソは味が落ちる。それでも彼は後出しのエスプレッソを、おれが飲み終えるのと同じころに、ぐいっと一息で飲み干すんだ。
おれはなにと張り合っていたのだろう。眠そうには見えない彼の青い目を見て、おれはふしぎと満足していた。
腕を伸ばしただけで体を寄せてくれる彼が愛しい。抱きしめてベッドに倒れる。せっかくのスーツにしわができてしまうかも、ちらりとよぎったそんな気後れを知ってか知らずか、おれに触れていない方の彼の手がネクタイを緩める。それは夜のルーティンだ、それだけで眠気も不安もなにもかも吹っ飛ぶおれは、鈍感どころかただの単細胞なのかもしれない。
おれの
「たまには遅刻も悪くないな」
そんな彼の呟きを食むように、おれは唇を重ねた。
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