第6話 聖女は傷痕だけをまとう
水車小屋の中に、異様な緊張が張り詰める。
髭面の盗賊が木箱から飛び降り、抜き身の剣を執る。
肌着姿の女── 若い修道女の装いを捨て、盆皿に食事とミルク瓶を乗せた少女
女が、地面を踏みしめて近づいてくる音が小屋の薄壁を通して聞こえてくる。
「聞こえるか、天使の足音だぜ」
それが角を曲がり、戸の前に立った。
「神様の先払いさ。楽しませてもらうぜ」
髭面は言いながら、木戸に耳を当ててささやいた。
「いいかい尼さんよ、開けるぜ」
水車の軋む音、赤子の火のついたような泣き声。
その隙間に、少女の澄んだ声が届いた。
「……お食事とミルクです」
髭面は「おう」と呟き、にやけ顔で弟分に笑みを投げると、外に向かって命じた。
「持ってるもんを戸口の足元に置け。そして十歩下がりやがれ」
木戸に押し当てた彼の鼓膜に、サンダルの擦れる音が近づき、そして遠ざかる。指示に従っているらしい。
「よーし、誰かほかに人影が見えたら、赤ん坊の首が飛ぶ。わかってんだろうな。開けるぞ」
言いながら振り返る。
弟分は籐籠のなかに剣の先を向けた。手が汗で滑りそうなのか柄を持ち直している。
髭面が、そっと木戸を押した。
外の光が小屋の中に射し込む。
湿った木の床に、扉のかたちで光が落ちた。
その明かりの向こうには、たしかに肌着の少女のシルエットしかなかった。
戸口には、盆に乗ったパンと木製のジョッキ、そして哺乳瓶がある。布のオシメはその下に敷いてある。
髭面が低く告げた。
「──よし。念の為だ。その肌着も上と下、そこで脱げ」
逆光を背に、躊躇うこともなく、彼女は肌着を脱ぎ捨てた。
「いいぜ、食いもんと一緒に入ってこい」
少女は戸口まできて膝を深く曲げ、盆皿を拾い上げると、静かに木戸をくぐった。
小屋の中の賊は、ふたりとも、視線で彼女の足先から顔までを、何度もなぞるように往復した。
艶めかしいものを見る目ではなかった。
どちらかと言えば憐憫。あわれむような、いや、それよりも畏怖するような目だった。
若い方も、髭面のほうも、その彼女の全身を見て、息を呑んでいた。
商売女から乱取りした虜囚まで、ありとあらゆる女の裸体を見てきたはずの冒険者、いや、傭兵崩れの彼らがこうして息をのんでいるのは、モモカの裸体。
その体には──すべて横に向けて古傷が刻まれていた。それはまるで、虎。横に走った傷の縞模様だった。
顔には、鼻筋を横切る真一文字の傷痕。
眼帯を外した左眼は、閉じたまま。
首から下にも、足首に至るまで、縞模様の傷が、薄暗い光を反射して輝いている。
髭面も、劣情をそがれたのか、その剣の先を下ろしていた。
「なんなんだ……その傷は……」
鋭利な刃物傷とも違う。魔法や火傷よりも鋭い傷。それはまるで無数のガラス片とともに樽の中で撹拌されたような
少女は無言で盆皿を両手で木箱に置いて、若いほうが抱えている赤子を抱き上げた。
すべては恥じらう素振りもなく、淡々とこなされていく。
赤子に哺乳瓶のミルクを与えて、背中をそっと叩いてゲップを出す。
おしめをかえて、もとのように籐籠のなかに寝かす。
寝息を立てる赤子に、ようやく笑みを向けたあと、彼女は足もとの薪を拾い上げた。
髭面は剣を鞘に戻していた。そして軽く鼻を鳴らした。
「つぎはこっちの相手を頼むぜ」
そして彼女の足先から顔の傷までを見た。
「まあいい。目を閉じてりゃ同じこった」
明かり採りから差しこむ光の中、彼女は背中を向けた。
その背中にも虎のような瘢痕。
モモカは言った。
「聞きたいことがある」
髭面が腰掛けたまま言った。
「なんだ虎女」
──虎。
そう聞いて、はじめてモモカの表情が変化した。
背中を向けたまま、彼女の左眼が開いていた。
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