第四十三話 判断が生まれた夜
夜明け前の時間は、戦場にとって奇妙な静けさをもたらす。
剣の音は止み、怒号も消え、代わりに布が擦れる音と、遠くで誰かが咳き込む気配だけが残る。安全ではない。ただ、殺し合いが一時的に中断されているだけだ。その曖昧な時間に、彼女は身を置いていた。
水桶の前に膝をつき、両手を沈める。
血はもう落ちている。赤い色は残っていない。それでも、指の間を一つずつ擦り、爪の裏を確かめるように洗った。水は冷たく、感覚が薄れるまで続けてから、ようやく顔を上げる。
医師ではない。
それは、誰よりも彼女自身が分かっている。
だから切らない。縫わない。魔法も使わない。
担架を運び、体を支え、息が止まる瞬間を見届ける。それが役割だった。
天幕の奥に、担架が置かれている。
その上の男は、目を開いていた。意識は明瞭で、呼吸も安定している。顔色も悪くない。だが、腰から下は動かない。
医師たちが低い声で言葉を交わしていた。
「処置は尽くした」
「出血は抑えた」
「命は助かっている」
一拍置いて、続く。
「だが、戻す根拠がない」
それ以上、言うことはないという口調だった。
誰も間違っていない。彼女はそう理解していた。医師たちは最善を尽くした。判断も合理的だ。奇跡を前提に動くことはできない。
担架の男――英雄と呼ばれていたその人間は、天幕の布を見つめていた。
「……俺は」
かすれた声で言葉を探す。
「まだ、立てると思うか」
問いは、医師ではなく、空間に投げられた。
誰も答えなかった。
彼女も、答えなかった。
嘘はつけない。慰めは意味を持たない。約束など、最初からできない。沈黙だけが、正直だった。
夜が深まるにつれ、焚き火の数は減っていった。
兵たちは輪を作り、低い声で話す。戦況、補給、次の配置。そこに、別の話題が混じる。
「王都を出た医師がいるらしい」
「治療の英雄だとか」
「英雄を、終わらせなかったって」
誰かが笑い、誰かが鼻で息を吐く。
「そんな都合のいい話があるかよ」
だが、誰も話題を切らなかった。
彼女は焚き火のそばを通り過ぎながら、それを聞いた。
口を挟まない。ただ、耳に残る。
治療の英雄。
その言葉は、妙に引っかかった。
しばらくして、呼ばれる。
振り向くと、そこにいたのは戦場には明らかに不釣り合いな人物だった。武装していない。鎧も着ていない。それでも、その場にいる兵たちは自然と道を空ける。
「イリス様です」
名が告げられる。
彼女は一瞬だけ姿勢を正した。深く礼をするほどではないが、無視することもできない。
イリスは命令書を持っていなかった。視察とも違う。ただ、確認に来た、という顔をしている。
二人は少し離れた場所に立った。
イリスは自分から話し始めなかった。質問されるまで、待つつもりのようだった。
彼女が先に口を開く。
「……さきほどの噂ですが」
焚き火で聞いた言葉を、そのままなぞる。
「王都を出た医師。
治療の英雄だと」
イリスは一拍置いた。
「そう呼ばれることはあります」
否定しない。
「英雄を、戻した例があるのも事実です」
その声は静かで、評価を混ぜていない。
「彼は、治療の英雄です」
はっきりと、そう言った。
彼女は思わず息を止めた。
「理由は分かりません。
理論はありますが、再現性は保証できない」
イリスは続ける。
「誰にでも同じことができる医師ではありません」
そこで言葉を切る。
彼女は一歩、踏み込んだ。
「……連れていったら」
一瞬、喉が鳴る。
「診ますか」
イリスは答えなかった。
視線を外し、遠くの天幕に目を向ける。その沈黙が、何より雄弁だった。
「来るかどうかは」
しばらくして、イリスは言う。
「本人が決める人です」
それ以上は語らない。
行けとも、行くなとも言わない。
助かるとも、助からないとも言わない。
イリスはそこで会話を終えた。
彼女は、その背中を見送った。
地図を広げる。
前線、後方、補給路。村の位置。
戦況は悪化している。補給は滞り、次の戦闘は避けられない。英雄は戻れず、兵は減っている。
選択肢は、思っていたより少なかった。
聞けば、来ないかもしれない。
説明すれば、時間がかかる。
だが今なら、連れていける。
彼女は、それを判断だとは思わなかった。
段取りだと思った。
「連れていくだけだ」
小さく、そう言う。
判断は医師がする。
自分は橋を架けるだけ。
そう信じて、動いた。
動いたあとで、命令書が降りた。形式が整い、周囲はそれを正しい流れとして受け取った。
夜明け前、出発の準備が整う。
馬が鳴き、兵が集まる。冷たい空気が肺に入る。
彼女は一瞬だけ立ち止まった。
見たことのない診療所。
会ったことのない医師。
それでも、足は止まらない。
「判断は、医師がする」
自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返す。
夜明けは、すぐそこまで来ていた。
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