第二十三話 置き場のある手

朝の診療所は、まだ音を選んでいる。


扉を開けると、床板が短く鳴り、外の冷えた空気が一歩だけ入り込む。夜の名残はあるが、寒さではない。火を入れていない炉の匂いと、乾いた布の匂いが混じっている。


リナは先に来ていた。


入口脇で布を畳んでいる。急ぐ様子はなく、折り目を一つずつ揃え、端を重ねて棚に収める。終わると、もう一度だけ手を止め、位置を見直した。


「おはよう、先生」


「おはよう」


それだけで、朝が始まる。


リナは井戸へ向かい、水を汲む。桶が軋み、戻ってきたときに水面が小さく揺れた。器具台を拭く。金属に布が触れる音が、短く、乾いている。


彼女が動くと、診療所の中の余分な音が減る。

何かが足されるわけではない。

ただ、空間が落ち着く。


銀色の髪は、朝の光を強く反射しない。白に近いが、冷たくはない。光を細かく分けて、肩のあたりで静かに止まる。結ばれていない部分が、動くたびに少し遅れて揺れる。


黒い目は、必要なところだけを見る。器具、布、水差し、床。人を見るときも同じだ。覗き込まず、逃げもしない。焦点が合うまでに、ほんの一拍だけ間がある。


体は小さい。診療所の机や椅子が、彼女の周囲では一回り大きく見える。それでも、縮こまらない。立ち位置が定まっている。


最初の患者は、男だった。


戸を開けて一歩踏み込んだところで、足が止まる。


理由ははっきりしているようで、言葉にできない。

匂いも、配置も、医師の姿も、いつもと同じだ。


ただ――

そこに、判断が一拍遅れる種類の人間が立っていた。


受付脇のリナが顔を上げる。


銀色の髪が、光を拾って柔らかく落ちる。作られすぎていない。黒い瞳がこちらを向く。鋭さはなく、どこか無防備に見えるのに、視線を逸らす必要がない。


体は小さい。だが、弱くは見えない。

立ち方が静かで、重心が定まっている。


「どうぞ」


声は落ち着いている。少し高いが、甘さに寄らない。


男は、ほんの一瞬、戸惑った。


――綺麗だ。

それと同時に、――可愛い。


どちらか一方なら、まだ理解できた。

だが、その二つが同時にある人物を、ここでは見たことがなかった。


戸惑いはすぐに修正される。

理由を考える前に、視線が落ち着く。


男は椅子に腰を下ろす。処置は短く終わり、礼を言って出ていった。振り返らない。


レオンは、その間、帳面から目を上げていなかった。

必要な行を書き、紙を閉じ、次の準備に移る。


彼女がそこにいることは、確認事項ではなくなっている。


午前中は静かに過ぎた。


擦り傷、咳、古傷の違和感。

リナは言われなくても動く。布を替え、水を足し、使い終わったものを下げる。誰かの前に立つとき、距離が近すぎない。離れすぎない。


昼前、子どもを連れた女性が来た。


子どもは最初、母親の影に隠れた。

リナは屈み、同じ高さになる。目線を合わせるが、覗き込まない。


「ここ、ちょっと冷たいよ」


そう言って、自分の手を先に当てる。

子どもはそれを見てから、手を差し出した。


診療所の中で、彼女の存在は目立たない。

だが、視線が集まる前に、場が整う。


昼を過ぎ、午後の診療が始まる。


木を運んで足を挟んだ若者が来た。腫れはあるが、変形はない。痛みで顔を歪めている。


リナは何も言わず、靴を脱がせ、脇に揃える。

その動きに迷いはない。


若者は処置の途中で、ちらりと彼女を見る。

理由は分からない。ただ、目が行く。


銀の髪と黒い目。

派手ではない。だが、曖昧でもない。


「……手慣れてるな」


ぽつりと漏れた言葉に、リナは少し考える。


「ここに、いるので」


それだけ言って、次の動作に移る。


若者は、それ以上何も言わなかった。


夕方が近づくと、村の空気が変わる。

仕事を終えた人々が、帰り道に立ち寄る。軽い相談。薬の受け取り。顔を見せるだけの者もいる。


その中に、昼とは別の男が来た。

戸を開けた瞬間、やはり一拍、動きが遅れる。


理由は同じだ。

だが、今度はすぐに理解される。


――ああ、ここにいる人か。


彼女は美しい。

同時に、かわいい。


だがそれは、視線を奪うためのものではない。

人の動きを一度止めて、整え直すための形だ。


男はすぐに歩き出す。

戸惑いは、もう残らない。


最後の患者が帰り、診療所に静けさが戻る。


リナは床を掃き、布を洗い、干す。

動きに疲れはあるが、乱れはない。


一段落したところで、手が止まる。


「……先生」


呼びかけは小さい。


レオンは顔を上げる。


「今日、手伝っていて……」


言葉が、そこで一度切れる。

考えていたわけではない。

ただ、続きがすぐに出てこなかった。


「……このまま」


少し間。


「看護師に、なれたらいいなって」


声は淡々としている。

決意でも、宣言でもない。

思いついたことを、そのまま置いたような言い方だった。


レオンは答えない。


ただ、次に使う器具を片づけ、灯りを一つ落とす。


リナはそれを見て、何も言わなかった。

言葉はもう、置かれている。


診療所の外で、夕方の風が吹く。

彼女はその中に、自然に立っていた。

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