第十五話 無駄を選ぶ日

朝の空気は冷たかった。


村の端にある宿の裏手で、リナは水桶を持ち上げた。重さはたいしたことがない。だが、桶の取っ手が指に食い込む感覚が、妙に現実的だった。戦場の重さとは違う。勝敗の重さでもない。ただ、生活の重さだった。


水は井戸から汲む。薪は割る。火を起こす。皿を洗う。

それだけで朝が過ぎる。


それだけで過ぎる朝があることを、リナはまだ身体が信じ切れていない。


剣は宿の部屋に置いてあった。布に包んだまま、壁に立てかけている。結び目はほどいていない。抜かないための結び目だ。剣を背負わないと、背中が軽い。軽さが落ち着かない。身体のどこかが、次の命令を探してしまう。


命令はない。


だから、選ばなければならなかった。

そして今朝、選べてしまった。


医務室へ行こう、と。


その判断に、合理的な理由はなかった。


痛みはない。

腫れもない。

息切れもない。


敵国の兵を退けた場所は遠い。ここに来てから、刃を振っていない。血も浴びていない。身体は、むしろ整っている。英雄として、動ける状態だった。


だから、診てもらう必要はない。


それでも、足は宿を出ていた。


理由は、いくらでも作れた。


昨夜の冷えで関節が重い、と言える。

長旅で足裏が痛む、と言える。

古傷が気になる、と言える。


戦場では、理由は作らない。理由は起きる。

矢が刺さる。骨が折れる。血が出る。


ここでは、理由を作れてしまう。


作れてしまうことが、少し怖かった。


村の道は昨日よりも明るい。人の動きが増えている。パンの匂いがした。湯気が立つ。子どもが走り、叱られて止まる。怒鳴り声ではない。止める声だ。声の質が違う。


医務室の白い壁が見えてくる。


リナは歩幅を変えなかった。

速くもしない。遅くもしない。


扉の前で止まる。


木製の扉は古く、取っ手は滑らかだった。多くの手が触れた証拠だ。焦げ跡も、新しい補修もない。手入れは行き届いているが、誇示はされていない。


灯りはまだついていない。昼前の時間だ。医務室は祈る場所ではなく、働く場所だった。


リナは一度だけ息を吐いた。


扉を叩く音が、小さく響いた。


「どうぞ」


返ってきた声を聞いた瞬間、胸の奥がほどけた。


驚きではない。懐かしさでもない。


もっと静かなもの。

身体が勝手に力を抜く感覚。


リナは扉を開けた。


室内は狭い。机が一つ。椅子が二つ。棚には瓶と布と、乾燥させた薬草。匂いは淡い。強くない。消毒の香りで誤魔化していない。清潔さは、匂いではなく秩序で保たれている。


レオンは机の前に立っていた。書き物をしていたらしい。ペン先が止まり、視線が上がる。


驚かない。評価しない。

相手を確認するだけの目。


「どうした」


名前を聞かない。

肩書きを聞かない。

何者かを問わない。


リナは一瞬、言葉を探した。


「……少し、確認を」


薄い言葉だと、自分でも思った。

だが、レオンは否定しなかった。


「座れ」


命令ではない。必要な工程としての指示。


リナは椅子に腰を下ろした。背筋が自然に伸びる。戦場の緊張ではない。姿勢が整う場所での座り方だった。


レオンは手を洗い、布で拭き、リナの前に立つ。銀の髪にも、黒い目にも、視線は留まらない。ここでは意味を持たない。評価されない。そのことが、どこか救いだった。


「どこが気になる」


リナは左手を差し出した。剣を握る手だ。だが今は、何も握っていない。


「触る」


そう言ってから、レオンは指を置いた。


冷たい指先。熱を持ち込まない手。

脈を取り、血流を見て、呼吸を見る。肩の位置、首の角度、座り方。英雄の身体は、意識せずとも癖が出る。


言葉は少ない。

判断は早い。


「今日は、特に異常はない」


その一言で終わる。


英雄としてどうか、とは言わない。

戦えるかどうかも聞かない。


役割を与えない。


リナの肩から、力が抜けた。


「……それだけ?」


自分でも、少し不思議な問いだった。


「それだけだ」


淡々とした返答。突き放しでも、甘さでもない。

医師として、必要な答えだけを返している。


沈黙が流れる。


不自然ではない沈黙。

成立している沈黙。


リナは棚の瓶を眺めた。薬草、布、針。

戦場の医務室には血と叫びがあった。ここには生活がある。


「水は飲んでいるか」


生活の確認。


「飲んでる」


「食事は」


「食べてる」


「睡眠は」


一瞬、言葉に詰まってから答えた。


「……眠れる」


その言葉を口にした瞬間、胸が軽くなる。


「ならいい」


深追いはしない。


レオンは机に戻り、簡潔な記録を取る。

あったこと、なかったこと。


リナは思った。


この人の前では、戦う役割を与えられない。

同時に、役に立たない存在にもされない。


ただ、人として扱われる。


それが、安心だった。


「君は、ここでは戦わなくていい」


レオンが、淡々と言う。


命令ではない。評価でもない。

ただの事実。


その一言で、リナの中の緊張が落ちた。


「肩が硬い」


「続ければ壊れる」


続けるかどうかは、リナが決める。

止められない。縛られない。


尊重だった。


リナは立ち上がった。


診てもらう必要はなかった。

それでも来た。


後悔はなかった。


扉の前で、リナは言った。


「……また、必要があれば、来てもいい?」


レオンのペンが止まる。


「必要なら」


それで十分だった。


外に出ると、空気が冷たい。世界が広い。

それでも、足取りは軽かった。


理由を探していない。


ここに来る理由を、もう探していなかった。


剣は抜かない。

結び目はほどけない。


それでも、戻ってしまった。


その事実だけが、静かに残った。


 診療所の外が、わずかに騒がしくなった。


 昼を過ぎたばかりの時間帯だ。

 リナは診療所の奥にいたが、何もしていなかった。

 手を出す理由も、出していい立場も、まだなかった。


 扉の前で、人の気配が止まる。

 一人ではない。

 複数だ。


 扉が開き、最初に入ってきたのは屈強な男だった。


 大柄で、肩幅が広い。

 鎧は身につけていないが、身体そのものが戦場を知っている。

 ただし、歩き方にわずかな乱れがある。

 一歩ごとに、身体の芯が遅れる。


 男の背後から、数人の医師が入ってくる。

 白衣ではない。

 だが、視線の運び方と立ち位置で、それと分かる。


 この人数で連れてくる理由は、一つしかなかった。


「……ここが」


 屈強な男が低く言った。


「判断医殿の診療所か」


「ええ」


 レオンは立ち上がらない。


 医師の一人が前に出ようとして、止まる。

 レオンが、短く手を上げた。


「本人を」


 それだけだった。


 屈強な男が一歩進む。

 診療台の前に立つが、座らない。


「英雄だった」


 自分で言った。


「そう呼ばれていた時期がある」


 誇りでも、否定でもない。

 事実の確認に近かった。


 レオンは近づき、衣服の上から男の胸、腹、背に手を当てる。

 力は入れない。

 数秒。


 医師たちは、息を詰めて見ていた。


 レオンは手を離す。


「……生きていますね」


 それだけだった。


 次の瞬間、屈強な男の身体がわずかに揺れた。


「……?」


 男が、自分の足を見る。

 一歩、踏み出す。


 遅れがない。


 もう一歩。

 重心が、自然に前へ流れる。


「……」


 言葉が出ない。


 同行していた医師の一人が、思わず声を漏らす。


「……いや、今のは……」


 別の医師が、首を振る。


「説明が……つかない……」


 レオンは答えない。


 屈強な男が、ゆっくりと膝を曲げ、また伸ばす。

 身体が、きちんと応じる。


「……戻ったのか」


 誰に向けた言葉でもなかった。


「歩けます」


 レオンが言う。


「生活に支障はありません」


 英雄だった男が顔を上げる。


「戦場は――」


 その言葉は、宙に残った。


 レオンは受け取らない。


「どう生きるかは」


 一拍、置く。


「こちらでは、決めません」


 屈強な男は、しばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「……そうか」


 それだけだった。


 帽子を取り、軽く頭を下げる。


「礼は言わない」


「結構です」


 男は振り返り、歩き出す。

 歩幅は、もう乱れていなかった。


 医師たちは後に続く。

 誰も、振り返らない。


 扉が閉まる。


 診療所に、静けさが戻った。


 リナは、その場から動けなかった。


 何かをしようとは思わなかった。

 できることも、なかった。


 ただ、見ていた。


 ――あのときと、同じだ。


 胸の奥が、ひやりとする。


 自分が瀕死だったとき。

 呼吸が浅くなり、意識が遠のいて、

 もう戻れないかもしれないと、

 自分でも思っていた。


 説明は尽くされていた。

 可能性は削られて、

 残っていたのは、諦めだけだった。


 それでも、ここに運ばれた。


 結果が決まっているはずの場所に。


 レオンは、そのときも今と同じだった。


 無理かどうかを聞かなかった。

 助かる理由も探さなかった。


 ただ、

 まだ生きているかどうかだけを見て。


 そして、

 奇跡みたいに、

 一瞬で終わらせた。


 あのとき救われたのは、

 身体だけじゃない。


 「もう終わりかもしれない」と思っていた時間ごと、

 切り落とされた。


 リナは、そっと息を吐いた。


 何もできなかった。

 何もしていない。


 それでも、

 あのときと同じ在り方が、

 今も、ここにあった。




――――――――――――――――――

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