第十二話 救われた時間
目を開けたとき、天井があった。
白い。
ひびも、模様も、染みもない。
ただの白だった。
それだけで、夢ではないと分かった。
夢は、もっと都合がいい。
こんなふうに、何も語らない白を用意しない。
体は重かった。
意識は戻っているのに、身体が追いつかない。
指先に力を入れようとして、失敗する。
もう一度、試す。
感覚が戻るまでに、思ったより時間がかかった。
息を吸う。
胸の奥が、ひりつく。
鋭い痛みではない。
だが、はっきりと「触れてはいけない場所」がある。
それでも、吸えた。
肺に空気が入る。
吐ける。
生きている。
その事実を理解するよりも先に、声が聞こえた。
「起きているか」
低く、抑えた声だった。
大きくも、優しくもない。
近い。
だが、距離を詰めてこない。
視線を動かす。
首が軋む。
男がいた。
白衣を着ている。
袖をまくり、前腕が露わになっている。
記録板を片手に、視線は紙に落ちていた。
立ち方が安定している。
片足に体重を預けない。
長く立つ仕事の癖だった。
その顔を、リナは覚えている。
今でも。
この先も。
だが、そのときの彼女は、
それが特別な記憶になるとは知らなかった。
「……はい」
声が、思ったよりも出た。
掠れてはいない。
震えてもいない。
それだけで、少し安心する。
「名前は」
問いは簡潔だった。
「リナです」
答えると、男は記録板に書き込む。
一度も顔を上げない。
名前を書く手に、迷いはない。
線はまっすぐで、速い。
「意識障害はない。
出血は止まっている」
淡々とした声だった。
慰めも、励ましもない。
生きていてよかった、という言葉もない。
事実だけが、並べられる。
「しばらく安静だ。
動かすなとは言わないが、無理はするな」
それだけ言って、男は次の患者へ向かった。
背中が、視界から外れる。
足音が遠ざかる。
それが、レオンだった。
彼にとって、リナは
その日、救命処置をした患者の一人だった。
数の中の一つ。
順番の一つ。
命を救ったという実感すら、
特別に残ることはない。
その日の夜、
彼は別の患者を診て、
別の判断をして、
眠った。
いつも通りの一日だった。
一方、リナは眠れなかった。
目を閉じると、
天井の白が浮かぶ。
医務室の音を聞いていた。
布が擦れる音。
誰かが寝返りを打つ気配。
足音。
器具が、静かに触れ合う音。
怖くはなかった。
ここにいれば、生きていていい。
理由は分からない。
だが、
そう思えた。
それは確信でも信仰でもない。
ただの感覚だった。
翌日、彼女は歩いて医務室に戻った。
誰かに呼ばれたわけではない。
指示されたわけでもない。
傷が痛んだわけでもなかった。
不安だったわけでもない。
ただ、
足が向いた。
自分でも理由は分からなかった。
「どうした」
同じ声だった。
昨日と同じ調子。
「……様子を見に」
それは嘘ではなかった。
だが、本当でもなかった。
レオンは脈を取り、
瞳孔を見て、
短く頷く。
「問題ない」
それだけ。
会話は、そこで終わった。
引き止められもしない。
深く問われもしない。
それでも、
リナは翌日も来た。
理由は考えていない。
説明も用意していない。
気づいたら、
医務室の前に立っている。
それが、何度も続いた。
レオンは、毎回対応した。
「異常はない」
「今日は問題ない」
「明日から訓練に戻れる」
言葉は変わらない。
調子も同じ。
彼女を引き止めない。
だが、追い返しもしない。
その距離が、
リナには心地よかった。
期待されない。
役割を与えられない。
評価もされない。
戦果を問われない。
勇敢だとも言われない。
それなのに、
そこにいていい。
ある日、リナは気づいた。
自分が、
彼の声を探していることに。
医務室の扉が開く音に、
無意識に顔を上げていることに。
誰が入ってくるかを、
確認している自分に。
だが、
それが何なのかは、分からない。
言葉がない。
ただ、
ここに来ると、呼吸が楽になる。
胸の奥が、
少しだけ広がる。
それだけだった。
レオンは、何も気づかない。
彼にとってリナは、
経過観察が必要な患者ですらなくなっていた。
健康で、若く、
戻る場所のある兵士。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女が医務室に来る理由を、
深く考えたことはなかった。
来るなら診る。
それだけだ。
数日後、レオンは医務室を離れた。
異動だった。
理由は説明されなかった。
必要もなかった。
リナが医務室を訪れたとき、
彼はいなかった。
最初は、
気に留めなかった。
医者だ。
いない日もある。
そう思えた。
だが、
次の日も、その次の日も。
白衣の男は戻らなかった。
胸の奥に、
初めて、はっきりとした違和感が生まれた。
――いない。
それが、何を意味するのか。
そのときの彼女には、まだ分からなかった。
怒りでもない。
悲しみでもない。
ただ、
呼吸が、少しだけしづらい。
分からないまま、
時間だけが進んでいった。
この感情に、
名前がつくのは、
もう少し先のことだ。
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